しなり。朝夕《ちょうせき》水を用いてその剛軟を論じながら、その水は何物の集まりて形をなしたるものか、その水中に何物を混じ何物を除けば剛水《ごうすい》となり、また軟水《なんすい》となるかの証拠を求めず、重炭酸|加爾幾《カルキ》は水に混合してその性を剛ならしめ、鉄瓶等の裏面に附着する水垢《みずあか》と称するものは、たいてい皆この加爾幾なりとの理は、これを度外におきて推究したる者あるを聞かず。今日にありても儒者の教に養育しられたる者は、これらの談を聴きて瑣末《さまつ》の事なりと思うべけれども、決して然らず。
 欧州近時の文明は皆、この物理学より出でざるはなし。彼の発明の蒸汽船車なり、鉄砲軍器なり、また電信|瓦斯《ガス》なり、働の成跡は大なりといえども、そのはじめは錙朱《ししゅ》の理を推究分離して、ついにもって人事に施したる者のみ。その大を見て驚くなかれ、その小を見て等閑《とうかん》に附するなかれ。大小の物、皆《みな》偶然に非ざるなり。人にして物理に暗く、ただ文明の物を用いてその物の性質を知らざるは、かの馬が飼料を喰《くろ》うて、その品の性質を知らず、ただその口に旨きものはこれを取りて、然らざるものはこれを捨つるに異ならず。
 然りといえども、馬はなお、その物の毒性なるか良性なるかを弁ずるの能力を有す。然るに今の世の不学の徒は、汽車に乗りて汽の理をしらず、電信を用いて電気の性質を知らず、はなはだしきは自身の何物たるを知らずして、摂生の法を誤る者あり。なおはなはだしきは、医は意なりと公言して、医術は憶測に出ずるものかと誤まり認《したた》め、無稽《むけい》の漢薬を服して自得する者あり。その愚の極度にいたりては、売薬をなめて万病を医せんと欲する者あり。上等社会にしてその知識の卑しきこと、実に驚くに堪えたり。
 ひっきょう物理を度外視するの罪にして、あるいは人にして馬に若《し》かずと評せらるるも、これに答うるの辞なかるべし。我が慶応義塾において初学を導くにもっぱら物理学をもってして、あたかも諸課の予備となすも、けだしこれがためなり。なお、その教則の事については他日陳述するところのものあるべし。



底本:「福沢諭吉教育論集」岩波文庫、岩波書店
   1991(平成3)年3月18日第1刷発行
底本の親本:「福沢諭吉選集 第3巻」岩波書店
   1980(昭和55)年12月18日第1
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング