を博すべきや否やの一段にいたりては、諭吉の保証すること能わざるところのものなり。倫理道徳の書にして尊信の一大要義を欠くときは、たとえこれを教うるも、いたずらに論議批評の媒介となりて、学生中においても、ひそかに是非《ぜひ》喋々《ちょうちょう》の言を聞くことあるべし。
 ここにおいてか、これを教うる者は、もとより少年学生輩の是非論を許すべきに非ざれば、陰に陽にさまざまの方便を用いて、その黙従を促さざるをえず。すなわち人に徳教を強ゆるものにして、その教のよって来たるところの本源は政府にありという。諭吉は政府のためを謀《はかっ》て惜む者なり。
 ゆえに本書の如きは民間一個人の著書にして、その信不信をばまったく天下の公論に任じ、各人自発の信心をもってこれを読ましむるは、なお可なりといえども、いやしくも政府の撰に係るものを定めて教科書となし、官立・公立の中学校・師範学校等に用うるは、諭吉の服せざるところなり。いわんや書中の立言、公徳論を先にして私徳に論及すること少なきにおいてをや。少年学生等のために適したるものというべからざるなり。
[#地から2字上げ]福沢諭吉 妄評



底本:「福沢諭吉教育論集」岩波文庫、岩波書店
   1991(平成3)年3月18日第1刷発行
底本の親本:「福澤諭吉全集 第12巻」岩波書店
   1960(昭和35)年10月1日初版発行
   1970(昭和45)年9月14日再版発行
初出:「時事新報」時事新報社
   1890(明治23)年3月18日
入力:田中哲郎
校正:noriko saito
2009年6月12日作成
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