証を示すの業は、教師の本分としてこれを略せり。」とあるがゆえに、中学校、師範学校の教師が、本書を講ずるときに、種々様々の例証を引用して、学生の徳行を導くことならん。ずいぶん易《やす》からざる業なれども、しばらく実際に行わるべきものとしてこれにしたがうも、なお遺憾なきを得ず。
 そもそも本書全面の立言は、人生戸外の公徳を主として、家内私徳の事には深く論及するところを見ず。然るに鄙見《ひけん》はまったくこれに反し、人間の徳行を公私の二様に区別して、戸外公徳の本源を家内の私徳に求め、またその私徳の発生は夫婦の倫理に原因するを信ずるものなり。本来、社会|生々《せいせい》の本《もと》は夫婦にあり。夫婦の倫《りん》、紊《みだ》れずして、親子の親《しん》あり、兄弟姉妹の友愛あり。すなわち人間の家(ホーム)を成すものにして、これを私徳の美という。内に私徳の修まるあれば、外に発して朋友の信となり、治者被治者の義となり、社会の交際法となるべし。
 けだし社会は個々の家よりなるものにして、良家の集合すなわち良社会なれば、徳教究竟の目的、はたして良社会を得んとするにあるか、須《すべか》らく本《もと》に返りて良家を作るべし。良家を作るの法は、兄弟姉妹をして友愛ならしめ、親子をして親ならしむるにあり。而《しこう》してその本源は、夫婦の倫理に発するものと知るべし。ゆえに少年の学生に徳を教うる教科書は、たんに私徳の要を説き、まず良家の良子女たらしめ、然る後に社会公徳の教に移るべきはずなるに、本書の立言、あるいはその要を欠くものの如し。
 今かりに一歩を譲り、倫理教科書中、私徳のことに説き及ぼさざるに非ず、「一家の間は専ら親愛をもってなる云々、一夫一妻にしてその間に尊卑の幣を免かるるは云々」等の語さえあれば、私徳の要ももとより重んずるところなりと説を作《な》すも、本書をもって学校の教科書となすにおいては、なお不可なるものあり。
 およそ徳教の書は、古聖賢の手になり、またその門に出でしものにして、主義のいかんにかかわらず、天下後世の人がその書を尊信するは、その聖賢の徳義を尊信するがゆえなり。支那の四書五経といい、印度の仏経といい、西洋のバイブルといい、孔孟、釈迦、耶蘇《ヤソ》、その人の徳高きがゆえに、書もまたともに光を生じて、人とともに信を得ることなり。かりに今日、坊間《ぼうかん》の一男子が奇言を吐《
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング