して何人に如何なる関係あるや、金銭上の貸借は如何、その約束は如何など、詳細の事実を知らずして、仮令い帳簿を見ても分明《ぶんみょう》ならず、之が為めに様々の行違いを生じて、甚しきは訴訟の沙汰に及ぶことさえ世間に珍らしからず。畢竟《ひっきょう》婦人が家計の外部に注意せざりし落度《おちど》にこそあれば、夫婦同居、戸外の経営は都《すべ》て男子の責任とは言いながら、其経営の大体に就ては婦人も之を心得置き、時々の変化盛衰に注意するは大切なることにして、我輩の言う女子に経済の思想を要すとは此辺の意味なり。
一 女子が如何に教育せられて如何に書を読み如何に博学多才なるも、其気品高からずして仮初にも鄙陋不品行の風あらんには、淑女の本領は既に消滅したりと言う可し。我輩が茲《ここ》に鄙陋不品行の風と記したるは、必ずしも其人が実際に婬醜の罪を犯したる其罪を咎むるのみに非ず、平生の言行野鄙にして礼儀上に忌む可きを知らず、動《やや》もすれば談笑の間にもあられぬ言葉を漏らして、当人よりも却て聞く者をして赤面せしむるが如き、都て不品行の敗徳として賤しむ可き所のものなり。例えば芸妓など言う賤しき女輩が衣裳を着飾り、酔客の座辺に狎《な》れて歌舞|周旋《しゅうせん》する其中に、漫語放言、憚る所なきは、活溌なるが如く無邪気なるが如く、又事実に於て無邪気|無辜《むこ》なる者もあらんなれども、之を目して座中の婬婦と言わざるを得ず。芸妓の事は固より人外として姑《しばら》く之を擱《お》き、事柄は別なれども、上流社会に於ても知らずして自から誤るものあり。近来教育の進歩に随て言葉の数も増加し、在昔学者社会に限りて用いたる漢語が今は俗間普通の通語と為りしもの多き中にも、我輩の耳障《みみざわり》なるは子宮の文字なり。従前婦人病と言えば唯、漠然血の道とのみ称し、其事の詳《つまびらか》なるは唯医師の言を聞くのみにして、素人の間には曾て言う者もなく聞く者もなかりしに、近年は日常交際の談話に公然子宮の語を用いて憚る所なく、売薬の看板にさえ其文字を見るのみならず、甚しきは婦人の口より洩るゝなどの奇談も時としてはなきに非ず。唯|仰天《ぎょうてん》す可きのみ。抑《そもそ》も子宮の字は洋語の Uterus(ユーテルス)に当り、相互直訳の文字にして、西洋諸国に於ては医師社会に限りて之を用い、診察治療の必要に迫れば極内々に患者又は其家人に之
前へ
次へ
全20ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング