成学即身実業の説、学生諸氏に告ぐ
福沢諭吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)卒《おわ》り

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)当時|横文《おうぶん》

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左の一篇は、去る一三日、東京芝区三田二丁目慶応義塾邸内演説館において、福沢先生が同塾学生に向て演説の筆記なり。
[#ここで字下げ終わり]

 学問に志して業を卒《おわ》りたらば、その身そのまま即身《そくしん》実業の人たるべしとは、余が毎《つね》に諸氏に勧告するところにして、毎度の説法、聴くもわずらわしなど思う人もあるべけれども、余が身に経歴したる時勢の変遷を想回《おもいか》えして、近く第二世の事を案ずれば、他人のためならで、自身の情に自《みず》から禁ずること能わざるものあれば、これを諸氏に説き明らかにして、かねてまた諸氏の父兄にもこの意を通達せしめんと欲するものなり。
 そもそも余は旧中津藩の士族にして、少小《しょうしょう》の時より藩士同様に漢書を学び、年二十歳ばかりにして始めて洋学に志したるは、今を去ることおよそ三十余年前なり。この時に洋書を読みはじめたるは、何の目的をもってしたるか、今において自から解すること能わず。
 当時、世に洋学者なきにあらざれども、たいてい皆、医術研究のためにする者にして、前途の目的もあることなれども、余が如きはもと医家の子にあらず、また自分に医師たらんと欲する志もなし。ただわけもなく医学塾にいて、医学生とともに荷蘭《オランダ》の医書を講じ、物理を研究したるのみにして、かつこの洋学を勉むればこれによりて誉れを郷党朋友に得るかというに、決して然らざるのみならず、かえって公衆の怒に触るるくらいの時勢にして、はなはだ楽しからず。あるいはこれによりて身に利することあるやというに、これまた思いも寄らず。すでに誉れなく、また利益なし、何のために辛苦勤学したるやと尋ねらるれば、ただ今にても返答に困る次第なれども、一歩を進めて考うれば説なきにあらず。
 すなわち余は日本の士族の子にして、士族一般先天遺伝の教育に浴し、一種の気風を具えたるは疑もなき事実にして、その気風とはただ出来難き事を好んでこれを勤むるの心、これなり。当時|横文《おうぶん》読むの業《わざ》はきわめてむつかしきことにして、容易に出来難き学問なりしがゆえに、これを勤めたることならん。あるいは洋学ならで、ほかに何か困難なる事業もありて、偶然に思いつきたらば、その方に身を委ねたるやも知るべからず。
 ひっきょう余が洋学は一時の偶然に出でて、その修業の辛苦なりしがゆえに、これに入りたるものなりと、自から信ずるの外あるべからず。すでにこの学に志してようやくこれを勤むる間には、ようやく真理原則の佳境に入り、苦学すなわち精神を楽しましむるの具となりて、いかにしてもこの楽境を脱すべからず。かえりみて我が身の出処《でどころ》たる古学社会を見れば、その愚鈍暗黒なる、ともに語るに足るべき者なく、ひそかにこれを目下に見下して愍笑《びんしょう》するのみ。その状、あたかも田舎漢《いなかもの》が都会の住居に慣れて、故郷の事物を笑うものに異ならず。ますます洋学に固着してますます心志の高尚なりしもゆえんなきに非ざるなり。
 右の如く、ただ気位《きぐらい》のみ高くなりて、さて、その生計はいかんというに、かつて目的あることなし。これまた、士族の気風にして、祖先以来、些少《さしょう》にても家禄あれば、とうてい飢渇の憂なく、もとより貧寒の小士族なれども、貧は士の常なりと自から信じて疑わざれば、さまで苦しくもなく、また他人に対しても、貧乏のために侮《あなど》りをこうむることとてはなき世の風俗なりしがゆえに、学問には勉強すれども、生計の一点においてはただ飄然《ひょうぜん》として日月《じつげつ》を消《しょう》する中に、政府は外国と条約を結び、貿易の道も開らけて、世間の風景、何となく文明開化の春をもよおし、洋学者の輩も人に悪《にく》まれ人に忌《い》まるるその中に、時勢やむをえざるよりして、俗世界のために器《うつわ》として用いらるるの場合となり、余が如きも、すなわちその器の一人にして、幕府に雇われ横文書翰翻訳の仕事を得たり。
 もとよりこれがために栄誉を博したるにあらず、人情一般、西洋の事物を穢《きた》なく思う世の中に、この穢なき事を吟味するは洋学者に限るとして利用せられたるその趣《おもむき》は、皮細工に限りてえたに御用をこうむりたるの情に異ならざりしといえども、えたにても非人にても、生計の道にありつきたるは実に図らざりしことにして、偶然に我が所得の芸能をもって銭《ぜに》を得たるものなり。

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