貧民の有様、かくの如しといえども、近年は政府よりもしきりに御世話、市在《しざい》の老人たちもしきりに説諭、また一方には、日本の人民も久しく太平文化の世に慣れて、教育の貴《たっと》きゆえんを知り、貧苦の中にも、よくその子を教育の門に入らしめ、もって今日の盛なるにいたりしは、国のために目出度《めでたき》ことというべし。然りといえども、物事には必ずかぎりある者にて、たとい貧民が奮発するも、子を教育するがために、事実、家内の飢寒を忍ぶべからず。すなわち飢寒と教育と相対《あいたい》して、この界《さかい》をば決して踰《こ》ゆべからざるものなり。
 ゆえに今、文部省より定めたる小学校の学齢、六歳より十四歳まで八年の間とあれども、貧民は決してこの八年の間、学に就く者なし。最初より学校に入らざる者はしばらくさしおき、たとい一度入学するも、一年にしてやめにする者あり、二年にして廃学する者あり。その廃学するとせざるとは、たいてい家の貧富の割合にしたがうものにして、廃する者は多く、廃せざる者は少なし。飢寒と教育と正《まさ》しく相対してその割合の違《たが》わざること、もって知るべし。
 されば今、日本国中に小学の生徒は必ず中途にて廃学すること多き者と認めざるをえず。すでに廃学に決してとどむべからざる者なれば、たとい廃学するも、その廃学の日までに学び得たることをもって、なおその者の生涯の利益となすべき工夫なかるべからず。今日学務においてもっとも大切なることなれば、いささか余が所見を述《のぶ》ること左の如し。各地方小学教師のために備考の一助ともならば幸甚《こうじん》のみ。

    小学教育の事 二

 平仮名と片仮名とを較《くら》べて、市在《しざい》民間の日用にいずれか普通なりやと尋《たずぬ》れば、平仮名なりと答えざるをえず。男女の手紙に片仮名を用いず。手形《てがた》、証文、受取書にこれを用いず。百人一首はもとより、草双紙《くさぞうし》その他、民間の読本《よみほん》には全く字を用いずして平仮名のみのものもあり。また、在町《ざいまち》の表通りを見ても、店の看板、提灯《ちょうちん》、行灯《あんどん》等の印《しるし》にも、絶えて片仮名を用いず。日本国中の立場《たてば》・居酒屋に、めし[#「めし」に白丸傍点]、にしめ[#「にしめ」に白丸傍点]と障子に記したるはあれども、メシ[#「メシ」に白丸傍点
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