かつ》の罪をまぬかれ難し。小学の教則に、さまざま高上なる課目をのせ、技芸も頂上に達して、画学、音楽、唱歌、体操等を教授せんとする者あるが如し。田舎の百姓の子に体操とは何事ぞ。草を刈り、牛を飼い、草臥《くたびれ》はてたるその子供を、また学校に呼びて梯子登りの稽古か、難渋至極というべし。
『論語』『大学』の教もまた、この技芸の如し。今の百姓の子供に、四角な漢字の素読《そどく》を授け、またはその講釈するも、もとより意味を解すものあるべからず。いたずらに双方の手間潰《てまつぶ》したるべきのみ。古来、田舎にて好事《ものずき》なる親が、子供に漢書を読ませ、四書五経を勉強する間に浮世の事を忘れて、変人奇物の評判を成し、生涯、身を持て余したる者は、はなはだ少なからず。ひっきょう、技芸にても道徳にても、これを教うるに順序を誤り場所を誤るときは、有害無益たるべし。今の小学校は高上なる技芸・道徳を教うる場所に非ざるなり。
 小学校の教育は、いつにても廃学のときに、幾分か生徒の身に実《じつ》の利益をつけて、生涯の宝物となすべきこと、余輩の持論なり。ゆえに人民の貧富、生徒の才・不才に応じて、国中の学校も二種に分れざるをえず。すなわち一は普通の人民に日用の事を教うる場所にして、一は学者の種《たね》を育つる場所なり。銭《ぜに》あり才あるものは、もとより今の小学校にとどまるべからず。あるいは最初よりこれに入らずして、上等の学校に入るべし。すなわち地方に中学校の入用というも、このわけなり。小中大といえば、順序をへて次第に上るべきように聞《きこゆ》れども、事実、人の貧富、才・不才にしたがって、はじめより区別するか、あるいは入学の後、自然にその区別なきを得ず。世の中の大勢これをいかんともすべからざるなり。
 右の如く学校の種類を二に分けて、その上等のものには、道徳の教に四書五経を用ゆべきやというに、ここにいたっても、余輩にはまた少しく説あり。道徳の教も人の教育の一カ条にして、必ず欠くべからざるものたるは論をまたず。たとえば人の生活に塩の欠くべからざるが如し。而《しこう》してその教の種類には、儒もあり、仏もあり、また神道、耶蘇もあり、たいてい同様のものならん。されども、日本には古来、儒者の道、もっとも繁昌したるゆえに、まず慣れたるものを用うるとして、かりに儒にしたがうも、今の儒者をしてそのまま得意の四書五
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