致《ふうち》もなく快楽もなきのみならず、あるいは行過ぎ、あるいは回り道して、事実に大なる損亡を蒙《こうむ》る者なきに非ず。一身一家の不始末はしばらくさしおき、これを公《おおやけ》に論じても、税の収納、取引についての公事《くじ》訴訟、物産の取調べ、商売工業の盛衰等を検査して、その有様を知らんとするにも、人民の間に帳合法のたしかなる者あらざれば、暗夜に物を探るが如くにして、これに寄つくべき方便なし。日本にて統計表の不十分なるも、その罪、多くは帳合法のふたしかなるによるものなり。
 帳合法の大切なることかくの如く、これを民間に用うるは、公私の為に欠くべからざるの急なれども、今これを記すに横文の数字を用い、額に等しき左行の日本語を書き、ついにこれを世間に流行せしむるの見込あるべきや。余輩には断じてその見込あることなし。草書を楷書に変じ、平仮名を片仮名にせんとするも、容易に行われ難き通俗世界の人民へ、横文左行の帳合法を示すも、人民はその利害得失を問うにいとまあらず、まずその外見の体裁に驚きてこれを避くることならん。
 ゆえに、今の横文字の帳合法は、一家に便利なり、上等の社会に便利なり、学者の流《りゅう》に適すべし、官員の仲間に適すべしといえども、人民の社会には適当せざるのみならず、かえってその体裁の怪しきがために、法の実用をも嫌わしむるものというべし。
 この官員なり、また学者なり、永遠無窮、人民と交際を絶つの覚悟ならばすなわち可ならんといえども、いやしくも上流の知見を下流に及さんとするには、その入門の路をやすくして、帳合にも日本の縦《たて》の文字を用い、法を西洋にして体裁を日本にせんこと、一大緊要の事なり。たとえば学者先生の家にしても、横の帳合法は、主人に便利にして、細君に不便利ならん。この主人が、家計の事についてはまったく細君をして知らしめず、主人と細君とあたかも他人の如くならんとするの覚悟ならば、すなわち可《か》ならんといえども、夫婦ともに一家の経済を始末せんと思わば、婦人にも分りやすき法を用うるこそ策の得たるものというべけれ。その利害、もとより明白にして、喋々《ちょうちょう》弁論するにも及ばざることなり。
 ある人の考に、日本の文字を用うれば、人の姓名を記し事柄を書くには、もとより便利なれども、数字にいたっては、二五八三と記して二千五百八十三と解《げ》すは、これまた人
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