となるに、世間の実際はこれに反し、およそ我が国の学者として大いに資産を作り出だしたるものを見ず。いかなる専門の一芸一能を手に入れたる人物にても、一事一業を起して富をいたしたるの談を聞かず。
あるいはたまたま豊に生活して多少の余財ある者もあるべしといえども、その財は、本人が教育上に授けられたる芸能を天下の殖産社会に活用して得たる財にはあらずして、幸に官途に用いられ、さしたる用もなけれども、きまりの俸給に衣食して、少々ずつその余りを積み貯えたるものより外ならず。その有様は、心身に働なき孤児・寡婦が、遺産の公債証書に衣食して、毎年少々ずつの金を余ますものに等し。天下の先覚、憂世の士君子と称し、しかもその身に抜群の芸能を得たる男子が、その生活はいかんと問われて、孤児・寡婦のはかりごとを学ぶとは、驚き入ったる次第にして、文明活溌の眼《まなこ》をもって評すれば、ただ憐むべきのみ。
試みに西洋諸国の工商社会を見れば、某《なにがし》は何々の工事を企てて何十万円を得たり、某は何々の商売に何百万の産をなしたりという、その人の身は、必ず学校より出でたる者にして、少小《しょうしょう》教育の所得を、成年の後、殖産の実地に施し、もって一身一家の富をいたしたる者にして、世に名声も香《かんば》しきことなれども、少壮の時より政府の官につき、月給を蓄積して富豪の名を成したる者あるを聞かず。もしもこれあれば、いわゆる守銭奴として世に齢《よわい》せられざることならん。されば今日《こんにち》、我が日本国の教育を蒙りたる学者は、とうてい殖産の社会に適用すべき者にあらず。殖産に不適当なる人物なれば、いかなる卓識の先生も、いかなる専門芸能の学士も、碁客《ごかく》将棋師に等しくして、とても一家の富を起すに足らず。一家富まざれば一国富むの日あるべからず。教育の目的、齟齬《そご》したるものというべし。
日本の教育がなにゆえにかくも齟齬したるやと尋ぬるに、教育さえ行きとどけば、文明の進歩、一切万事、意の如くならざるはなしと信じて、かえってその教育を人間世界に用うるの工風を忘れたるの罪なりと答えざるをえず。人間世界は存外に広くして存外に俗なるものなり。文明の頂上と称する国々に於てもなおかつ然り。まして日本の如き、その文明の実価はともかくも、西洋流の文明についてはすべて不案内なるこの人民に向い、高尚なる学校教場の知見を
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