慶応義塾の記
福沢諭吉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)義塾を創《はじ》め
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)講究|切磋《せっさ》し
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「壹+鳥」、第3水準1−94−71]斎
[#…]:返り点
(例)自[#レ]我作[#レ]古
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今ここに会社を立てて義塾を創《はじ》め、同志諸子、相ともに講究|切磋《せっさ》し、もって洋学に従事するや、事、もと私《わたくし》にあらず、広くこれを世に公《おおやけ》にし、士民《しみん》を問わずいやしくも志あるものをして来学せしめんを欲するなり。
そもそも洋学のよって興《おこ》りしその始を尋ぬるに、昔、享保の頃、長崎の訳官某|等《ら》、和蘭通市の便を計り、その国の書を読み習わんことを訴えしが、速やかに允可《いんか》を賜りぬ。すなわち我が邦の人、横行《おうこう》の文字を読み習うるの始めなり。
その後、宝暦明和の頃、青木昆陽、命を奉じてその学を首唱し、また前野蘭化、桂川|甫周《ほしゅう》、杉田|※[#「壹+鳥」、第3水準1−94−71]斎《いさい》等起り、専精してもって和蘭の学に志し、相ともに切磋《せっさ》し、おのおの得るところありといえども、洋学|草昧《そうまい》の世なれば、書籍《しょじゃく》はなはだ乏《とぼ》しく、かつ、これを学ぶに師友なければ、遠く長崎の訳官についてその疑を叩《た》たき、たまたま和蘭人に逢わばその実を質《ただ》せり。けだしこの人々いずれも英邁卓絶の士なれば、ひたすら|自[#レ]我作[#レ]古《われよりいにしえをなす》の業《わざ》にのみ心をゆだね、日夜研精し寝食を忘るるにいたれり。あるいは伝う、蘭化翁、長崎に往きて和蘭語七百余言を学び得たりと。これによって古人、力を用ゆるの切なると、その学の難きとを察すべし。その後、大槻|玄沢《げんたく》、宇田川|槐園《かいえん》等|継起《けいき》し、降りて天保弘化の際にいたり、宇田川|榛斎《しんさい》父子、坪井信道、箕作|阮甫《げんぽ》、杉田|成卿《せいけい》兄弟および緒方洪庵等、接踵《せっしょう》輩出せり。この際や読書訳文の法、ようやく開け、諸家翻訳の書、陸続、世に出ずるといえども
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