を顕《あら》わし、下士の力は漸《ようや》く進歩の路に在り。一方に釁《きん》の乗《じょう》ずべきものあれば、他の一方においてこれを黙《もく》せざるもまた自然の勢《いきおい》、これを如何《いかん》ともすべからず。この時に下士の壮年にして非役《ひやく》なる者(全く非役には非ざれども、藩政の要路に関《かかわ》らざる者なり)数十名、ひそかに相議《あいぎ》して、当時執権の家老を害せんとの事を企《くわだ》てたることあり。中津藩においては古来|未曾有《みぞう》の大事件、もしこの事をして三十年の前にあらしめなば、即日にその党与を捕縛《ほばく》して遺類《いるい》なきは疑を容《い》れざるところなれども、如何《いかん》せん、この時の事勢においてこれを抑制《よくせい》すること能《あた》わず、ついに姑息《こそく》の策《さく》に出《い》で、その執政を黜《しりぞ》けて一時の人心を慰《なぐさ》めたり。二百五十余年、一定不変と名《なづ》けたる権力に平均を失い、その事実に顕《あら》われたるものは、この度の事件をもって始とす。(事は文久三|癸亥《きがい》の年に在り)
この事情に従《したがっ》て維新《いしん》の際に至り、ますます下士族の権力を逞《たくまし》うすることあらば、或は人物を黜陟《ちゅっちょく》し或は禄制《ろくせい》を変革し、なお甚《はなはだ》しきは所謂《いわゆる》要路の因循吏《いんじゅんり》を殺して、当時流行の青面書生《せいめんしょせい》が家老参事の地位を占めて得々たるがごとき奇談をも出現すべきはずなるに、中津藩に限りてこの変を見ざりしは、蓋《けだ》し、また謂《いわ》れなきに非ず。下等士族の輩《はい》が、数年以来教育に心を用《もちう》るといえども、その教育は悉皆《しっかい》上等士族の風を真似《まね》たるものなれば、もとよりその範囲《はんい》を脱《だっ》すること能《あた》わず。剣術の巧拙《こうせつ》を争わん歟《か》、上士の内に剣客|甚《はなは》だ多くして毫《ごう》も下士の侮《あなどり》を取らず。漢学の深浅《しんせん》を論ぜん歟《か》、下士の勤学《きんがく》は日《ひ》浅《あさ》くして、もとより上士の文雅に及ぶべからず。
また下士の内に少しく和学を研究し水戸《みと》の学流を悦《よろこ》ぶ者あれども、田舎《いなか》の和学、田舎の水戸流にして、日本活世界の有様を知らず。すべて中津の士族は他国に出《いず》
前へ
次へ
全21ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング