ものあり。けだし国の政事は、前にもいえる如く、今日の人事にあたりて臨機応変の処分あるべきものにして、たとえば饑饉には救恤《きゅうじゅつ》の備えをなし、外患《がいかん》には兵馬を用意し、紙幣下落すれば金銀貨を求め、貿易の盛衰をみては関税を上下する等、俗言これを評すれば掛引《かけひき》の忙わしきものなるがゆえに、もしも国の学校を行政の部内に入るるときは、その学風もまた、おのずからこの掛引のために左右せらるるなきを期すべからず。掛引は日夜の臨機応変にして、政略上にもっとも大切なる部分なれば、政治家の常に怠るべからざる事なれども、学問は一日一夜の学問に非ず、容易に変易すべからざるなり。
 もとより今の文部省の学制とても、決して政治に関係するに非ず。その学校の教則の如き、我が輩の見るところにおいて大なる異論あるなし。徳育を重んじ智育を貴び、その術学、たいがい皆、西洋文明の元素にとりて、体育養生の法にいたるまでも遺すところなきは、美なりというべしといえども、いかんせん、この美なる学制を施行する者が、行政官の吏人たるのみならず、ただちに生徒に接して教授する者もまた吏人にして、かつ学校教場の細事務と一般の気風とは学則中に記すべきにも非ざれば、その気風精神のよりて生ずる源《みなもと》は、これを目下の行政上にとらざるをえず。而《しこう》してその行政なるものは、全体の性質において遠年に持続すべきものに非ず。また、持続してよろしからざるものなれば、政治の針路の変化するにしたがいて、学校の気風精神もまた変化せざるをえず。学問の本色《ほんしょく》に背《そむ》くものというべし。
 これを要するに、政治は活溌にして動くものなり、学問は沈深にして静なるものなり。静者をして動者と歩をともにせしめんとす、その際に幣を見るなからんとするも得べからず。たとえば、青年の学生にして漫《みだり》に政治を談じ、または政談の新聞紙等を読みて世間に喋々《ちょうちょう》するは、我が輩も好まざるところにして、これをとどむるはすなわち静者をして静ならしめ、学者のために学者の本色を得せしめんとするの趣意なれども、もしもこれをとどむる者が行政官吏の手より出ずるときは、学者のためにするにかねてまた、行政の便利のためにするの嫌疑なきを得ず。
 然るに行政の性質はもっとも活溌にして、随時に変化すべきがゆえに、一時、静を命ずるも、また時として動を勧むるなきを期すべからず。あるいは他の動者に反対して静を守るの極端は、己《おの》れ自から静の境界をこえて、反動の態《てい》に移るなきを期すべからず。ひっきょう、学問と政治と相密着するの余弊ならん。我が輩がその分離を祈るゆえんなり。
 学問と政治と密着せしむるの不利は、ひとり我が輩の発明に非ず。古来、我が日本国において、その理由趣旨を明言したる者こそなけれども、実際においてその趣旨の行われたるは不思議なりというべし。往古の事はしばらくさしおき、徳川の時代において中央政府はむろん、三百藩にも儒臣なる者を置き、子弟の教育を司るの慣行にして、これを尊敬せざるには非ず、藩主なおかつ儒臣に対しては師と称するほどのことにして、栄誉少なからずといえども、そのこれを尊ぶや、ただ学問上に限るのみにして、政治に関してはかつて儒臣の喙《くちばし》をいれしめず、はなはだしきはこれを長袖《ちょうしゅう》の身分と称して、神官、僧侶、医師の輩と同一視して、政庁に入れざるのみならず、他士族と歯《よわい》するを許さざるの風なりき。
 徳川の儒臣|林大学頭《はやしだいがくのかみ》は、世々《よよ》大学頭にして、その身分は、老中《ろうじゅう》、若年寄の次にして旗下の上席なれども、徳川の施政上に釐毫《りごう》の権力を持たず、あるいは国家の大事にあたりては、大政府より諮詢《しじゅん》のこともあれども、ただ顧問にとどまるのみ。けだしその然《しか》るゆえんは、武人の政府、文を軽んずるの幣などとて、嘆息する者もありしかども、我が輩の所見はまったくこれに反し、政府の文武にかかわらず、子弟の教育を司る学者をして政事に参与せしむるは国の大害にして、徳川の制度・慣行こそ当《とう》を得たるものと信ずるなり。
 当時もしも大学頭をして実際の行政官たらしめんか、林家《りんけ》の党類はなはだ多くして、いずれも論説には富む者なれば、政府の中にたちまち林家の一政党をなし、而《しこう》してその党類の力、よく全国を圧倒するには足らずして、かえって反対の敵を生じ、林家支配の官立学校にて政談の主義はかくの如し、これを実際に施したる政府の針路は云々と称すれば、都下の家塾はむろん、地方にも藩立・私立の学校も盛なれば、あるいは林家に従属し、あるいはこれに反対し、学問の談論よりただちに政治の主義に推《お》し及ぼして、ただに中央政府中の不和のみ
前へ 次へ
全11ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング