授を司どり、かえりみて各地方の政治家を見れば、時の政府と意見を殊にして、これに反対する者あるの場合においては、その反対の働は、単に政治の事項にとどまらずして、行政部内にある諸学校にまで及ぼして、本来|無辜《むこ》の学問に対して無縁の政敵を出現するにいたるべし。
すでに今日にありても、学校の教員等を採用するに、その政治の主義いかんを問うて、何々政党に縁ある者は用い難しと、きわめて窮窟なることをいう者あれば、また一方には小学の教員を雇うに、何某はいずれの政談演説会に聴衆の喝采を得たる人物なれば、少しくその給料を豊にしてこれを遇すべしとて、学識の深浅を問わずして、小政談の巧拙をもって品評を下す者あり。双方ともに政治の熱心をもって学校を弄《もてあそ》ぶものというべし、双方ともに学問のために敵を求むるものというべし。
元来学問は、他の武芸または美術等にひとしく、まったく政治に関係を持たず、如何なる主義の者にても、ただその学術を教授するの技倆ある者にさえあれば、教員として妨なきはずなるに、これを用うるに、その政治上の主義如何を問い、またその政談の巧拙を評するが如きは、今日こそ世人の軽々《けいけい》看過するところならんといえども、その実は恐るべき禍乱の徴候にして、我が輩は天下|後日《ごじつ》の世相を臆測し、日本の学問は不幸にして政治に附着して、その惨状の極度はかの趙末、旧水戸藩の覆轍《ふくてつ》に陥ることはなかるべきやと、憂苦に堪えざるなり。
されば今日この禍を未然に防ぐは、実に焦眉の急にして、決して怠るべからざるものならん。その法いかにして可ならんというに、我が輩の持論は、今の文部省または工部省の学校を、本省より分離して一旦帝室の御有《ぎょゆう》となし、さらにこれを民間の有志有識者に附与して、共同私有私立学校の体《てい》をなさしめ、帝室より一時巨額の金円を下附せられて永世保存の基本を立《たつ》るか、また、年々帝室の御分量《ごぶんりょう》中より、学事保護のためにとて定額を賜わるか、二様の内いかようにもすべきなれども、一時下附の法もはなはだ難事に非ず。
たとえば、目今、本省にてその直轄学校のために費《ついや》すところ、毎年五十万円なれば、資金五百万円を一時に下附してその共同の私有金となし、この金をもって実価五百万円の公債証書を買うて、これを政府に預け、年々およそ五十万円の利子を収領すべし。名は五百万円を下附すというも、その実は現金を受授するに非ず、大蔵省中貯蓄の公債証書に記名を改《あらたむ》るのみ。また、この大金を人民に下附するとはいえども、その人の私《わたくし》に恵与するに非《あら》ざるはむろんにして、私の字に冠するに共同の字をもってすれば、もとより一個人の私すべからざるや明らかなり。
私立学校はすでに五百万円の資金を得て、維持の法はなはだやすし。ここにおいてなお、全国の碩学《せきがく》にして才識徳望ある人物を集めて、つねに学事の会議を開き、学問社会の中央局と定めて、文書学芸の全権を授け、教育の方法を議し、著書の良否を審査し、古事を探索し、新説を研究し、語法を定め、辞書を編成する等、百般の文事を一手に統轄し、いっさい政府の干渉を許さずして、あたかも文権の本局たるべし。
在昔《ざいせき》、徳川政府|勘定所《かんじょうどころ》の例に、旗下《はたもと》の士が廩米《りんまい》を受取るとき、米何石何斗と書く米の字は、その竪棒《たてぼう》を上に通さずして俗様《ぞくよう》に※[#「米」の縦棒の上半分を取ったもの、102−5]と記すべき法なるを、ある時、林大学頭より出したる受取書に、楷書をもって尋常に米と記しければ、勘定所の俗吏輩、いかでこれを許すべきや、成規に背《そむ》くとて却下したるに、林家においてもこれに服せず、同家の用人と勘定所の俗吏と一場の争論となりて、ついに勘定奉行と大学頭と直談《じきだん》の大事件に及びたるときに、大学頭の申し分に、日本国中文字のことは拙者一人の心得にあり、米は米の字にてよろしとの一言にて、政府中の全権と称する勘定奉行も、これがために失敗したりとの一話あり。右は事実か、あるいは好事家《こうずか》の作りたる奇話か、これを知るべからずといえども、林家に文権の帰したる事情は、推察するに足るべし。
今日は時勢もちがい、かかる奇話あるべきようもなしといえども、もしも幸にして学事会の設立もあらば、その権力は昔日の林家の如くならんこと、我が輩の祈るところなり。また、学事会なるものが、かく文事の一方について全権を有するその代りには、これをして断じて政事に関するを得せしめず、如何なる場合においても、学校教育の事務に関する者をして、かねて政事の権をとらしむるが如きは、ほとんどこれを禁制として、政権より見れば、学者はいわゆる長袖《ちょ
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