ならず、あるいは全国の変乱にいたるも計るべからざりしに、徳川政府の始終、かつてその弊害を見ざりしは、ひっきょうするに、教育の学者をして常に政治社外にあらしめたるの功徳《こうとく》といわざるをえざるなり。
人、あるいはいわく、学問と政治とはもとより異なり、異なるがゆえに、学問所に政談を禁じて、多く政治の書を読ましめざるなり、その制法・規則さえ定まれば、二者の分界明白にして人を誤ることなし、との説あれども、ただ説にいうべくして、教育の実際に行わるべからざるの言なり。たとい、いかなる法則を設けて学問所を検束するも、いやしくもその教育を支配する学頭にして行政部内の人なれば、教育を受くる学生を禁じて政治の心なからしめんとするは、難易を問わずしてまずそのよくすべからざるを知るべし。
あるいは生徒を教訓警戒して、政談に喋々するなかれ、世上に何々を談ずる者あり、何々に熱心する者あり、はなはだ心得違《こころえちがい》なればこれにならうなかれと禁ずれば、その禁止の言葉の中におのずから他の党派に反対してこれを嫌忌《けんき》するの意味を含有するがゆえに、たといこれを禁じ了《おわ》るも、その学生の一類は、かの禁止の言中、おのずから政治の意味あるを知る者なれば、ただ口にこそ政《まつりごと》を談ぜざれども、その成跡《せいせき》はあたかも政談を談ぜざるの政党たるべきのみ。
元来政治の主義・針路を殊にするは、異宗旨の如きものにして、たとえば今、法華宗《ほっけしゅう》の僧侶が衆人に向いて、念仏を唱うるなかれというのみにて、あえて自家の題目を唱えよと勧むるには非ざるも、その念仏を禁ずるの際に、法華宗に教化《きょうげ》せんとするの意味は十分に見るべきが如し。結局、学校の生徒をして政治社外に教育せんとするには、その首領なる者が、真実に行政の外にありて、中心より無偏・無党なるに非ざれば、かなわざることと知るべし。真実に念仏を禁じて仏法の念なからしめんと欲せば、念仏も禁じ題目も禁ずるか、または念仏も題目も、ともに嫌忌《けんき》せずして勝手に唱えしめ、ただ一身の自家宗教を信ぜずして、これを放却《ほうきゃく》するの外に方略あるべからず。
首領の心事と地位と、実に偏党なきにおいては、その学校に何の書を読み何事を談ずるも、なんらの害をもなさざるのみならず、学問の本色において、社会の現事に拘泥《こうでい》すること
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