しこの教師が言葉に富みて言い回しのよき人物にして、「円きとは角《かど》の取れて団子のようなということ、水晶とは山から掘り出すガラスのようなもので甲州なぞからいくらも出ます。この水晶でこしらえたごろごろする団子のような玉」と解き聞かせたらば、婦人にも子供にも腹の底からよくわかるべきはずなるに、用いて不自由なき言葉を用いずして不自由するは、畢竟演説を学ばざるの罪なり。
 あるいは書生が「日本の言語は不便利にして、文章も演説もできぬゆえ、英語を使い英文を用うる」なぞと、取るにも足らぬ馬鹿を言う者あり。按《あん》ずるにこの書生は日本に生まれていまだ十分に日本語を用いたることなき男ならん。国の言葉はその国に事物の繁多なる割合に従いて、しだいに増加し、毫《ごう》も不自由なきはずのものなり。何はさておき今の日本人は今の日本語を巧みに用いて弁舌の上達せんことを勉むべきなり。
 第二 顔色容貌を快くして、一見、直ちに人に厭わるることなきを要す。肩をそびやかして諂《へつら》い笑い、巧言令色、太鼓持ちの媚《こび》を献ずるがごとくするはもとより厭うべしといえども、苦虫を噛み潰して熊の胆《い》をすすりたるがごとく、黙して誉《ほ》められて笑いて損をしたるがごとく、終歳胸痛を患《うれ》うるがごとく、生涯父母の喪にいるがごとくなるもまたはなはだ厭うべし。顔色容貌の活発愉快なるは人の徳義の一ヵ条にして、人間交際においてもっとも大切なるものなり。人の顔色はなお家の門戸のごとし、広く人に交わりて客来を自由にせんには、まず門戸を開きて入口を洒掃《さいそう》し、とにかくに寄りつきを好くするこそ緊要なれ。
 しかるに今、人に交わらんとして顔色を和するに意を用いざるのみならず、かえって偽君子を学んで、ことさらに渋き風を示すは、戸の入口に骸骨をぶら下げて、門の前に棺桶を安置するがごとし。誰かこれに近づく者あらんや。世界中にフランスを文明の源と言い、智識分布の中心と称するも、その由縁を尋ぬれば、国民の挙動常に活発気軽にして言語容貌ともに親しむべく近づくべきの気風あるをもって原因の一ヵ条となせり。
 人あるいは言わん、「言語・容貌は人々の天性に存するものなれば勉めてこれを如何《いかん》ともすべからず、これを論ずるも詰まるところは無益に属するのみ」と。この言あるいは是《ぜ》なるがごとくなれども、人智発育の理を考えなば、その当たらざるを知るべし。およそ人心の働き、これを進めて進まざるものあることなし。その趣は人身の手足を役《えき》してその筋を強くするに異ならず。されば言語・容貌も人の心身の働きなれば、これを放却して上達するの理あるべからず。しかるに古来日本国中の習慣において、この大切なる心身の働きを捨てて顧みる者なきは、大なる心得違いにあらずや。ゆえに余輩の望むところは、改めて今日より言語容貌の学問と言うにはあらざれども、この働きを人の徳義の一ヵ条として等閑にすることなく、常に心にとどめて忘れざらんことを欲するのみ。
 或る人またいわく、「容貌を快くするとは表を飾《かざ》ることなり。表を飾るをもって人間交際の要となすときは、ただに容貌顔色のみならず、衣服も飾り飲食も飾り、気に叶わぬ客をも招待して、身分不相応の馳走するなぞ、まったく虚飾をもって人に交わるの弊あらん」と。この言もまた一理あるがごとくなれども、虚飾は交際の弊にしてその本色にあらず。事物の弊害はややもすればその本色に反対するもの多し。「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」とは、すなわち弊害と本色と相反対するを評したる語なり。譬《たと》えば食物の要は身体を養うにありといえども、これを過食すればかえってその栄養を害するがごとし。栄養は食物の本色なり、過食はその弊害なり。弊害と本色と相反対するものと言うべし。
 されば人間交際の要も和して真率なるにあるのみ。その虚飾に流るるものはけっして交際の本色にあらず。およそ世の中に夫婦親子より親しき者はあらず、これを天下の至親と称す。しこうしてこの至親の間を支配するは何ものなるや、ただ和して真率なる丹心あるのみ。表面の虚飾を却《しりぞ》け、またこれを掃《はら》い、これを却掃し尽くして、はじめて至親の存するものを見るべし。しからばすなわち交際の親睦は、真率のうちに存して、虚飾と並び立つべからざるものなり。
 余輩もとより今の人民に向かいて、その交際、親子夫婦のごとくならんことを望むにあらざれども、ただその赴くべきの方向を示すのみ。今日俗間の言に人を評して、あの人は気軽な人と言い、気のおけぬ人と言い、遠慮なき人と言い、さっぱりした人と言い、男らしき人と言い、あるいは多言なれどもほどのよき人と言い、騒々しけれども悪《にく》からぬ人と言い、無言なれども親切らしき人と言い、こわいようなれどもあっさりした人と言うがごときは、あたかも家族交際の有様を表わし出して、和して真率なるを称したるものなり。
 第三 「道同じからざれば相ともに謀《はか》らず」と。世人またこの教えを誤解して、学者は学者、医者は医者、少しくその業を異にすれば相近づくことなし、同塾同窓の懇意にても、塾を巣立ちしたる後に、一人が町人となり一人が役人となれば、千里隔絶、呉越の観をなす者なきにあらず。はなはだしき無分別なり。人に交わらんとするには、ただに旧友を忘れざるのみならず、兼ねてまた新友を求めざるべからず。人類相接せざれば互いにその意を尽くすこと能《あた》わず、意を尽くすこと能わざればその人物を知るに由《よし》なし。試みに思え、世間の士君子、いったんの偶然に人に遭《あ》うて生涯の親友たる者あるにあらずや。十人に遭うて一人の偶然に当たらば、二十人に接して二人の偶然を得べし。人を知り、人に知らるるの始源は、多くこの辺にありて存するものなり。人望栄名なぞの話はしばらく擱《お》き、今日世間に知己朋友の多きは、差し向きの便利にあらずや。先年宮の渡しに同船したる人を、今日銀座の往来に見かけて双方図らず便利を得ることあり。今年出入りの八百屋が、来年奥州街道の旅籠屋《はたごや》にて腹痛の介抱してくれることもあらん。
 人類多しといえども、鬼にもあらず蛇《じゃ》にもあらず、ことさらにわれを害せんとする悪敵はなきものなり。恐れはばかるところなく、心事を丸出しにしてさっさと応接すべし。ゆえに交わりを広くするの要は、この心事をなるたけ沢山にして、多芸多能一色に偏せず、さまざまの方向によりて人に接するにあり。あるいは学問をもって接し、あるいは商売によりて交わり、あるいは書画の友あり、あるいは碁・将棋の相手あり、およそ遊冶放蕩の悪事にあらざるより以上のことなれば、友を会するの方便たらざるものなし。あるいはきわめて芸能なき者ならばともに会食するもよし、茶を飲むもよし。なお下りて筋骨の丈夫なる者は腕押し、枕引き、足|角力《ずもう》も一席の興として交際の一助たるべし。腕押しと学問とは道同じからずして相ともに謀るべからざるようなれども、世界の土地は広く、人間の交際は繁多にして、三、五尾《び》の鮒《ふな》が井中《せいちゅう》に日月を消するとは少しく趣を異にするものなり。人にして人を毛嫌いするなかれ。



底本:「日本の名著 33 福沢諭吉」中公バックス、中央公論社
   1984(昭和59)年7月20日初版発行
底本の親本:「福沢諭吉全集 第三巻」岩波書店
   1959(昭和34)年4月
初出:「学問のすすめ」
   1872(明治5)年2月初編発行
入力:任天堂株式会社
校正:松永正敏
2008年1月14日作成
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