ることあらば、論者必ず評して言わん、「宗教の大趣意は衆生済度《しゅじょうさいど》にありて人を殺すにあらず。いやしくもこの趣意を誤ればその余は見るに足らざるなり。西洋の親鸞上人はよくこの旨を体し、野に臥《ふ》し、石を枕にし、千辛万苦、生涯の力を尽くしてついにその国の宗教を改革し、今日に至りては全国人民の大半を教化《きょうげ》したり。その教化の広大なることかくのごとしといえども、上人の死後、その門徒なる者、宗教の事につき、あえて他宗の人を殺したることなくまた殺されたることもなきは、もっぱら宗徳をもって人を化したるものと言うべし。顧みて日本の有様を見れば、ルーザひとたび世に出でてローマの旧教に敵対したりといえども、ローマの宗徒容易にこれに服するにあらず、旧教は虎のごとく新教は狼のごとく、虎狼相闘い食肉流血、ルーザの死後、宗教のために日本の人民を殺し日本の国財を費やし、師《いくさ》を起こし国を滅ぼしたるその禍は、筆もって記すべからず、口もって語るべからず、殺伐なるかな、野蛮の日本人は、衆生済度の教えをもって生霊を塗炭に陥《おとしい》れ、敵を愛するの宗旨によりて無辜《むこ》の同類を屠《ほふ》り、今日に至りてその成跡|如何《いかん》を問えば、ルーザの新教はいまだ日本人民の半ばを化すること能わずと言えり。東西の宗教その趣を異にすることかくのごとし。余輩ここに疑いを容《い》るること日すでに久しといえども、いまだその原因の確かなるものを得ず。竊《ひそか》に按《あん》ずるに日本の耶蘇教も西洋の仏法も、その性質は同一なれども、野蛮の国土に行なわるればおのずから殺伐の気を促し、文明の国に行なわるればおのずから温厚の風を存するによりて然るものか、あるいは東方の耶蘇教と西方の仏法とは、はじめよりその元素を異にするによりて然るものか、あるいは改革の始祖たる日本のルーザと西洋の親鸞上人とその徳義に優劣ありて然るものか、みだりに浅見をもって臆断すべからず。ただ後世博識家の確説を待つのみ」と。
 しからばすなわち今の改革者流が日本の旧習を厭《いと》うて西洋の事物を信ずるは、まったく軽信軽疑の譏《そしり》を免るべきものと言うべからず。いわゆる旧を信ずるの信をもって新を信じ、西洋の文明を慕うのあまりに兼ねてその顰蹙朝寝の癖をも学ぶものと言うべし。なおはなはだしきはいまだ新の信ずべきものを探り得ずして早くすでに旧物を放却し、一身あたかも空虚なるがごとくにして安心立命の地位を失い、これがためついには発狂する者あるに至れり。憐れむべきにあらずや〔医師の話を聞くに、近来は神経病および発狂の病人多しという〕。
 西洋の文明もとより慕うべし。これを慕いこれに倣《なら》わんとして日もまた足らずといえども、軽々これを信ずるは信ぜざるの優に若《し》かず。彼の富強はまことに羨むべしといえども、その人民の貧富不平均の弊をも兼ねてこれに倣うべからず。日本の租税寛なるにあらざれども、英国の小民が地主に虐せらるるの苦痛を思えば、かえってわが農民の有様を祝せざるべからず。西洋諸国、婦人を重んずるの風は人間世界の一美事なれども、無頼なる細君が跋扈《ばっこ》して良人を窘《くる》しめ、不順なる娘が父母を軽蔑して醜行を逞しゅうするの俗に心酔すべからず。
 されば今の日本に行なわるるところの事物は、はたして今のごとくにしてその当を得たるものか、商売会社の法、今のごとくにして可ならんか、政府の体裁、今のごとくにして可ならんか、教育の制、今のごとくにして可ならんか、著書の風、今のごとくにして可ならんか、しかのみならず、現に余輩学問の法も今日の路に従いて可ならんか、これを思えば百疑並び生じてほとんど暗中に物を探るがごとし。この雑沓混乱の最中にいて、よく東西の事物を比較し、信ずべきを信じ、疑うべきを疑い、取るべきを取り、捨つべきを捨て、信疑取捨そのよろしきを得んとするはまた難きにあらずや。
 然りしこうして今この責《せ》めに任ずる者は、他なし、ただ一種わが党の学者あるのみ。学者勉めざるべからず。けだしこれを思うはこれを学ぶに若《し》かず。幾多の書を読み、幾多の事物に接し、虚心平気、活眼を開き、もって真実のあるところを求めなば、信疑たちまちところを異にして、昨日の所信は今日の疑団となり、今日の所疑は明日氷解することもあらん。学者勉めざるべからざるなり。
[#改段]

 十六編



   手近く独立を守ること

 不覊《ふき》独立の語は近来世間の話にも聞くところなれども、世の中の話にはずいぶん間違いもあるものゆえ、銘々にてよくその趣意を弁《わきま》えざるべからず。
 独立に二様の別あり、一は有形なり、一は無形なり。なお手近く言えば品物につきての独立と、精神につきての独立と、二様に区別あるなり。
 品物につきての独立とは、世間の人が銘々に身代を持ち、銘々に家業を勤めて、他人の世話厄介にならぬよう、一身一家内の始末をすることにて、一口に申せば人に物を貰《もら》わぬという義なり。
 有形の独立は右のごとく目にも見えて弁じやすけれども、無形の精神の独立に至りては、その意味深く、その関係広くして、独立の義に縁なきように思わるることにもこの趣意を存して、これを誤るものはなはだ多し。細事ながら左にその一ヵ条を撮《と》りてこれを述べん。
「一杯、人、酒を呑《の》み、三杯、酒、人を呑む」という諺《ことわざ》あり。今この諺を解けば、「酒を好むの欲をもって人の本心を制し、本心をして独立を得せしめず」という義なり。今日世の人々の行状を見るに、本心を制するものは酒のみならず、千状万態の事物ありて本心の独立を妨ぐることはなはだ多し。
 この着物に不似合いなりとてかの羽織を作り、この衣裳に不相当なりとてかの煙草入れを買い、衣服すでに備われば屋宅の狭きも不自由となり、屋宅の普請はじめて落成すれば宴席を開かざるもまた不都合なり、鰻飯は西洋料理の媒酌《ばいしゃく》となり、西洋料理は金の時計の手引きとなり、比《これ》より彼《かれ》に移り、一より十に進み、一進また一進、段々限りあることなし。この趣を見れば一家の内には主人なきがごとく、一身の内には精神なきがごとく、物よく人をして物を求めしめ、主人は品物の支配を受けてこれに奴隷使《どれいし》せらるるものと言うべし。
 なおこれよりはなはだしきものあり。前の例は品物の支配を受くる者なりといえども、その品物は自家の物なれば、一身一家の内にて奴隷の境界に居《お》るまでのことなれども、ここにまた他人の物に使役せらるるの例あり。かの人がこの洋服を作りたるゆえ我もこれを作ると言い、隣に二階の家を建てたるがゆえにわれは三階を建つると言い、朋友の品物はわが買物の見本となり、同僚の噂咄《うわさばなし》はわが注文書の腹稿となり、色の黒き大の男が節《ふし》くれ立ちたるその指に金の指輪はちと不似合いと自分も心に知りながら、これも西洋人の風なりとて無理に了簡《りょうけん》を取り直して銭を奮発し、極暑の晩景《ばんけい》、浴後には浴衣《ゆかた》に団扇《うちわ》と思えども、西洋人の真似なれば我慢を張りて筒袖に汗を流し、ひたすら他人の好尚に同じからんことを心配するのみ。他人の好尚に同じゅうするはなおかつ許すべし。その笑うべきの極度に至りては他人の物を誤り認め、隣りの細君が御召縮緬《おめしちりめん》に純金の簪《かんざし》をと聞きて大いに心を悩まし、急に我もと注文して後によくよく吟味すれば、豈《あに》計らんや、隣家の品は綿縮緬に鍍金《めっき》なりしとぞ。かくのごときは、すなわちわが本心を支配するものは自分の物にあらずまた他人の物にもあらず、煙のごとき夢中の妄想に制せられて、一身一家の世帯は妄想の往来に任ずるものと言うべし。精神独立の有様とは多少の距離あるべし。その距離の遠近は銘々にて測量すべきものなり。
 かかる夢中の世渡りに心を労し、身を役《えき》し、一年千円の歳入も、一月百円の月給も、遣《つか》い果たしてその跡を見ず、不幸にして家産歳入の路《みち》を失うか、または月給の縁に離るることあれば、気抜けのごとく、間抜けのごとく、家に残るものは無用の雑物《ぞうもつ》、身に残るものは奢移《しゃし》の習慣のみ。憐れと言うもなおおろかならずや。産を立つるは一身の独立を求むるの基《もとい》なりとて心身を労しながら、その家産を処置するの際に、かえって家産のために制せられて独立の精神を失い尽くすとは、まさにこれを求むるの術をもってこれを失うものなり。余輩あえて守銭奴の行状を称誉するにあらざれども、ただ銭を用うるの法を工夫し、銭を制して銭に制せられず、毫《ごう》も精神の独立を害することなからんを欲するのみ。

   心事と働きと相当すべきの論

 議論と実業と両《ふたつ》ながらそのよろしきを得ざるべからずとのことは、あまねく人の言うところなれども、この言うところなるものもまたただ議論となるのみにして、これを実地に行なう者はなはだ少なし。そもそも議論とは、心に思うところを言に発し、書に記すものなり。あるいはいまだ言と書に発せざれば、これをその人の心事と言い、またはその人の志と言う。ゆえに議論は外物に縁なきものと言うも可なり。畢竟内に存するものなり、自由なるものなり、制限なきものなり。実業とは心に思うところを外に顕《あら》わし、外物に接して処置を施すことなり。ゆえに実業には必ず制限なきを得ず、外物に制せられて自由なるを得ざるものなり、古人がこの両様を区別するには、あるいは言と行と言い、あるいは志と功と言えり。また今日俗間にて言うところの説と働きなるものも、すなわちこれなり。
 言行|齟齬《そご》するとは、議論に言うところと実地に行なうところと一様ならずということなり。「功に食《は》ましめて志に食ましめずとは、「実地の仕事次第によりてこそ物をも与うべけれ、その心になんと思うとも形もなき人の心事をば賞すべからず」との義なり。また俗間に、「某《なにがし》の説はともかくも、元来働きのなき人物なり」とてこれを軽蔑することあり。いずれも議論と実業と相当せざるを咎《とが》めたるものならん。
 さればこの議論と実業とは寸分も相齟齬せざるよう正しく平均せざるべからざるものなり。今、初学の人の了解に便ならしめんがため、人の心事と働きという二語を用いて、その互いに相助けて平均をなし、もって人間の益を致す所以《ゆえん》と、この平均を失うよりして生ずるところの弊害を論ずること左のごとし。
 第一 人の働きには、大小軽重の別あり。芝居も人の働きなり、学問も人の働きなり、人力車を挽《ひ》くも、蒸気船を運用するも、鍬をとりて農業するも、筆を揮《ふる》いて著述するも、等しく人の働きなれども、役者たるを好まずして学者たるを勤め、車挽きの仲間に入らずして航海の術を学び、百姓の仕事を不満足なりとして著書の業に従事するがごときは、働きの大小軽重を弁別し、軽小を捨てて重大に従うものなり。人間の美事と言うべし。然りしこうして、そのこれを弁別せしむるものはなんぞや。本人の心なり、また志なり。かかる心志ある人を名づけて心事高尚なる人物と言う。ゆえにいわく、人の心事は高尚ならざるべからず、心事高尚ならざれば働きもまた高尚なるを得ざるなり。
 第二 人の働きはその難易にかかわらずして、用をなすの大なるものと小なるものとあり。囲碁・将棋等の技芸も易《やす》きことにあらず、これらの技芸を研究して工夫を運《めぐ》らすの難《かた》きは、天文・地理・器械・数学等の諸件に異ならずといえども、その用をなすの大小に至りてはもとより同日の論にあらず。今この有用無用を明察して有用の方につかしむるものは、すなわち心事の明らかなる人物なり。ゆえにいわく、心事明らかならざれば人の働きをしていたずらに労して功なからしむることあり。
 第三 人の働きには規則なかるべからず。その働きをなすに場所と時節とを察せざるべからず。譬《たと》えば道徳の説法はありがたきものなれども、宴楽の最中に突然とこれを唱うればいたずらに人の嘲《あざけ》りを
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