べき道すでに開けたることなれば、よくその身分を顧み、わが身分を重きものと思い、卑劣の所行あるべからず。およそ世の中に無知文盲の民ほど憐《あわ》れむべくまた悪《にく》むべきものはあらず。智恵なきの極《きわ》みは恥を知らざるに至り、己《おの》が無智をもって貧窮に陥り飢寒に迫るときは、己が身を罪せずしてみだりに傍《かたわら》の富める人を怨み、はなはだしきは徒党を結び強訴《ごうそ》・一揆《いっき》などとて乱暴に及ぶことあり。恥を知らざるとや言わん、法を恐れずとや言わん。天下の法度《ほうど》を頼みてその身の安全を保ち、その家の渡世をいたしながら、その頼むところのみを頼みて、己が私欲のためにはまたこれを破る、前後不都合の次第ならずや。あるいはたまたま身本《みもと》慥《たし》かにして相応の身代ある者も、金銭を貯《たくわ》うることを知りて子孫を教うることを知らず。教えざる子孫なればその愚なるもまた怪しむに足らず。ついには遊惰放蕩に流れ、先祖の家督をも一朝の煙となす者少なからず。
 かかる愚民を支配するにはとても道理をもって諭《さと》すべき方便なければ、ただ威をもって畏《おど》すのみ。西洋の諺《ことわざ》に「愚民の上に苛《から》き政府あり」とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災《わざわい》なり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。ゆえに今わが日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり。仮りに人民の徳義今日よりも衰えてなお無学文盲に沈むことあらば、政府の法も今一段厳重になるべく、もしまた、人民みな学問に志して、物事の理を知り、文明の風に赴《おもむ》くことあらば、政府の法もなおまた寛仁大度の場合に及ぶべし。法の苛《から》きと寛《ゆる》やかなるとは、ただ人民の徳不徳によりておのずから加減あるのみ。人誰か苛政を好みて良政を悪《にく》む者あらん、誰か本国の富強を祈らざる者あらん、誰か外国の侮りを甘んずる者あらん、これすなわち人たる者の常の情なり。今の世に生まれ報国の心あらん者は、必ずしも身を苦しめ思いを焦がすほどの心配あるにあらず。ただその大切なる目当ては、この人情に基づきてまず一身の行ないを正し、厚く学に志し、博《ひろ》く事を知り、銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備えて、政府はその政《まつりごと》を施すに易《やす》く、諸民はその支配を受けて苦しみなきよう、互いにその所を得てともに全国の太平を護らんとするの一事のみ。今余輩の勧むる学問ももっぱらこの一事をもって趣旨とせり。

    端書《はしがき》

 このたび余輩の故郷中津に学校を開くにつき、学問の趣意を記して旧《ふる》く交わりたる同郷の友人へ示さんがため一冊を綴りしかば、或る人これを見ていわく、「この冊子をひとり中津の人へのみ示さんより、広く世間に布告せばその益もまた広かるべし」との勧めにより、すなわち慶応義塾の活字版をもってこれを摺《す》り、同志の一覧に供うるなり。
 明治四年|未《ひつじ》十二月
[#ここから地から1字上げ]
福沢諭吉
     記
小幡篤次郎
[#ここで字上げ終わり]
[#改段]

 二編



    端書

 学問とは広き言葉にて、無形の学問もあり、有形の学問もあり。心学、神学、理学等は形なき学問なり。天文、地理、窮理、化学等は形ある学問なり。いずれにてもみな知識|見聞《けんもん》の領分を広くして、物事の道理をわきまえ、人たる者の職分を知ることなり。知識見聞を開くためには、あるいは人の言を聞き、あるいはみずから工夫《くふう》を運《めぐ》らし、あるいは書物をも読まざるべからず。ゆえに学問には文字を知ること必要なれども、古来世の人の思うごとく、ただ文字を読むのみをもって学問とするは大なる心得違いなり。
 文字は学問をするための道具にて、譬《たと》えば家を建つるに槌《つち》・鋸《のこぎり》の入用なるがごとし。槌・鋸は普請《ふしん》に欠くべからざる道具なれども、その道具の名を知るのみにて家を建つることを知らざる者はこれを大工と言うべからず。まさしくこのわけにて、文字を読むことのみを知りて物事の道理をわきまえざる者はこれを学者と言うべからず。いわゆる「論語よみの論語しらず」とはすなわちこれなり。わが国の『古事記』は暗誦すれども今日の米の相場を知らざる者は、これを世帯の学問に暗き男と言うべし。経書《けいしょ》・史類の奥義には達したれども商売の法を心得て正しく取引きをなすこと能《あた》わざる者は、これを帳合いの学問に拙《つたな》き人と言うべし。数年の辛苦を嘗め、数百の執行金《しゅぎょうきん》を費やして洋学は成業したれども、なおも一個私立の活計をなし得ざる者は、時勢の学問に疎《うと》き人なり。これらの人物はただこれを文字の問屋と言うべき
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