れを恐れて服従の容《かたち》をなすのみ。今の政府はただ力あるのみならず、その智恵すこぶる敏捷《びんしょう》にして、かつて事の機に後《おく》るることなし。一新の後、いまだ十年ならずして、学校・兵備の改革あり、鉄道・電信の設あり、その他石室を作り、鉄橋を架する等、その決断の神速なるとその成功の美なるとに至りては、実に人の耳目を驚かすに足れり。しかるにこの学校・兵備は、政府の学校・兵備なり、鉄道・電信も、政府の鉄道・電信なり、石室・鉄橋も、政府の石室・鉄橋なり。人民はたしてなんの観をなすべきや。人みな言わん、「政府はただに力あるのみならず兼ねてまた智あり、わが輩の遠く及ぶところにあらず、政府は雲上にありて国を司り、わが輩は下にいてこれに依頼するのみ、国を患《うれ》うるは上の任なり、下賤の関わるところにあらず」と。概してこれを言えば、古《いにしえ》の政府は力を用い、今の政府は力と智とを用ゆ。古の政府は民を御するの術に乏しく、今の政府はこれに富めり。古の政府は民の力を挫《くじ》き、今の政府はその心を奪う。古の政府は民の外を犯し、今の政府はその内を制す。古の民は政府を視《み》ること鬼のごとくし、今の民はこれを視ること神のごとくす。古の民は政府を恐れ、今の民は政府を拝む。この勢いに乗じて事の轍《てつ》を改むることなくば、政府にて一事を起こせば文明の形はしだいに具わるに似たれども、人民にはまさしく一段の気力を失い文明の精神はしだいに衰うるのみ。
 いま政府に常備の兵隊あり、人民これを認めて護国の兵となし、その盛んなるを祝して意気揚々たるべきはずなるに、かえってこれを威民の具とみなして恐怖するのみ。いま政府に学校、鉄道あり、人民これを一国文明の徴として誇るべきはずなるに、かえってこれを政府の私恩に帰し、ますますその賜に依頼するの心を増すのみ。人民すでに自国の政府に対して萎縮《いしゅく》震慄の心をいだけり、豈《あに》外国に競うて文明を争うに遑《いとま》あらんや。ゆえにいわく、人民に独立の気力あらざれば文明の形を作るもただに無用の長物のみならず、かえって民心を退縮せしむるの具となるべきなり。
 右に論ずるところをもって考うれば、国の文明は上《かみ》政府より起こるべからず、下《しも》小民より生ずべからず、必ずその中間より興りて衆庶《しゅうしょ》の向かうところを示し、政府と並び立ちてはじめて成功を期すべきなり。西洋諸国の史類を案ずるに、商売・工業の道、一として政府の創造せしものなし、その本《もと》はみな中等の地位にある学者の心匠に成りしもののみ。蒸気機関はワットの発明なり、鉄道はステフェンソンの工夫《くふう》なり、はじめて経済の定則を論じ商売の法を一変したるはアダム・スミスの功なり。この諸大家はいわゆるミッヅル・カラッスなる者にて、国の執政にあらず、また力役《りきえき》の小民にあらず、まさに国人の中等に位し、智力をもって一世を指揮したる者なり。その工夫発明、まず一人の心に成れば、これを公にして実地に施すには私立の社友を結び、ますますその事を盛大にして人民無量の幸福を万世に遺《のこ》すなり。この間に当たり政府の義務は、ただその事を妨げずして適宜に行なわれしめ、人心の向かうところを察してこれを保護するのみ。
 ゆえに文明の事を行なう者は私立の人民にして、その文明を護する者は政府なり。これをもって一国の人民あたかもその文明を私有し、これを競いこれを争い、これを羨みこれを誇り、国に一の美事あれば全国の人民手を拍《う》ちて快と称し、ただ他国に先鞭を着けられんことを恐るるのみ。ゆえに文明の事物|悉皆《しっかい》人民の気力を増すの具となり、一事一物も国の独立を助けざるものなし。その事情まさしくわが国の有様に相反すと言うも可なり。
 今わが国においてかのミッヅル・カラッスの地位に居《お》り、文明を首唱して国の独立を維持すべき者はただ一種の学者のみなれども、この学者なるもの時勢につき眼を着すること高からざるか、あるいは国を患《うれ》うること身を患うるがごとく切ならざるか、あるいは世の気風に酔いひたすら政府に依頼して事をなすべきものと思うか、おおむね皆その地位に安んぜずして去りて官途に赴き、些末の事務に奔走していたずらに身心を労し、その挙動笑うべきもの多しといえども、みずからこれを甘んじ、人もまたこれを怪しまず、はなはだしきは「野《や》に遺賢なし」と言いてこれを悦ぶ者あり。もとより時勢の然らしむるところにて、その罪一個の人にあらずといえども、国の文明のためには一大災難と言うべし。文明を養いなすべき任に当たりたる学者にして、その精神の日に衰うるを傍観してこれを患うる者なきは、実に長大息すべきなり、また痛哭《つうこく》すべきなり。
 ひとりわが慶応義塾の社中はわずかにこの災難
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