として役人の給料はもちろん、政府の諸入用をば悉皆《しっかい》国民より賄《まかな》うべしと約束せしことなり。かつまた政府はすでに国民の総名代となりて事をなすべき権を得たるものなれば、政府のなすことはすなわち国民のなすことにて、国民は必ず政府の法に従わざるべからず。これまた国民と政府との約束なり。ゆえに国民の政府に従うは政府の作りし法に従うにあらず、みずから作りし法に従うなり。国民の法を破るは政府の作りし法を破るにあらず、みずから作りし法を破るなり。その法を破りて刑罰を被《こうむ》るは政府に罰せらるるにあらず、みずから定めし法によりて罰せらるるなり。この趣を形容して言えば、国民たる者は一人にて二人前の役目を勤むるがごとし。すなわちその一の役目は、自分の名代として政府を立て、一国中の悪人を取り押えて善人を保護することなり。その二の役目は、固く政府の約束を守りその法に従いて保護を受くることなり。
 右のごとく、国民は政府と約束して政令の権柄《けんぺい》を政府に任せたる者なれば、かりそめにもこの約束を違《たが》えて法に背《そむ》くべからず。人を殺す者を捕えて死刑に行なうも政府の権なり、盗賊を縛りて獄屋に繋《つな》ぐも政府の権なり、公事《くじ》訴訟を捌《さば》くも政府の権なり、乱暴・喧嘩を取り押うるも政府の権なり。これらの事につき、国民は少しも手を出だすべからず。もし心得違いして私に罪人を殺し、あるいは盗賊を捕えてこれを笞《むち》うつ等のことあれば、すなわち国の法を犯し、みずから私に他人の罪を裁決する者にて、これを私裁と名づけ、その罪|免《ゆる》すべからず。この一段に至りては文明諸国の法律はなはだ厳重なり。いわゆる威ありて猛《たけ》からざるものか。わが日本にては政府の威権盛んなるに似たれども、人民ただ政府の貴きを恐れてその法の貴きを知らざる者あり。今ここに私裁のよろしからざる所以と国法の貴き所以とを記すこと左のごとし。
 譬《たと》えばわが家に強盗の入り来たりて、家内の者を威《おど》し金を奪わんとすることあらん。この時に当たり、家の主人たる者の職分は、この事の次第を政府に訴え、政府の処置を待つべきはずなれども、事火急にして出訴の間合いもなく、かれこれするうちにかの強盗はすでに土蔵へ這入《はい》りて金を持ち出さんとするの勢いあり。これを止めんとすれば主人の命も危き場合なるゆえ、や
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