国の文明は形をもって評すべからず。学校と言い、工業と言い、陸軍と言い、海軍と言うも、みなこれ文明の形のみ。この形を作るは難《かた》きにあらず、ただ銭をもって買うべしといえども、ここにまた無形の一物あり、この物たるや、目見るべからず、耳聞くべからず、売買すべからず、貸借すべからず、あまねく国人の間に位してその作用はなはだ強く、この物あらざればかの学校以下の諸件も実の用をなさず、真にこれを文明の精神と言うべき至大至重のものなり。けだしその物とはなんぞや。いわく、人民独立の気力、すなわちこれなり。
 近来わが政府、しきりに学校を建て工業を勧め、海陸軍の制も大いに面目を改め、文明の形、ほぼ備わりたれども、人民いまだ外国へ対してわが独立を固くしともに先を争わんとする者なし。ただにこれと争わざるのみならず、たまたまかの事情を知るべき機会を得たる人にても、いまだこれを詳《つまび》らかにせずしてまずこれを恐るるのみ。他に対してすでに恐怖の心をいだくときは、たとい、我にいささか得《う》るところあるもこれを外に施すに由なし。畢竟、人民に独立の気力あらざれば、かの文明の形もついに無用の長物に属するなり。
 そもそもわが国の人民に気力なきその原因を尋ぬるに、数千百年の古《いにしえ》より全国の権柄を政府の一手に握り、武備・文学より工業・商売に至るまで、人間些末の事務といえども政府の関わらざるものなく、人民はただ政府の嗾《そう》するところに向かいて奔走するのみ。あたかも国は政府の私有にして、人民は国の食客たるがごとし。すでに無宿の食客となりてわずかにこの国中に寄食するを得るものなれば、国を視ること逆旅《げきりょ》のごとく、かつて深切の意を尽くすことなく、またその気力を見《あら》わすべき機会をも得ずして、ついに全国の気風を養いなしたるなり。
 しかのみならず今日に至りては、なおこれよりはなはだしきことあり。おおよそ世間の事物、進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む。進まず退かずして潴滞《ちょたい》する者はあるべからざるの理なり。今、日本の有様を見るに、文明の形は進むに似たれども、文明の精神たる人民の気力は日に退歩に赴《おもむ》けり。請う、試みにこれを論ぜん。在昔、足利・徳川の政府においては民を御するにただ力を用い、人民の政府に服するは力足らざればなり。力足らざる者は心服するにあらず、ただこ
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