を制し、しかる後に相当の業につかしむることなるべし。その飲酒、遊冶を禁ぜざるの間は、いまだともに家業の事を語るべからず。されども人にして酒色に耽《ふけ》らざればとて、これをその人の徳義と言うべからず。ただ世の害をなさざるのみにて、いまだ無用の長物たるの名は免れ難し。その飲酒、遊冶を禁じたるうえ、またしたがって業につき、身を養い、家に益することありて、はじめて十人並みの少年と言うべきなり。自食の論もまたかくのごとし。
わが国士族以上の人、数千百年の旧習に慣れて、衣食の何ものたるを知らず、富有のよりて来たるところを弁ぜず、傲然《ごうぜん》みずから無為に食して、これを天然の権義と思い、その状あたかも沈湎冒色、前後を忘却する者のごとし。この時に当たり、この輩の人に告ぐるに何事をもってすべきや。ただ自食の説を唱えて、その酔夢を驚かすのほか手段なかるべし。この流の人に向かいて豈《あに》高尚の学を勧むべけんや。世を益するの大義を説くべけんや。たといこれに説き勧むるも、夢中学に入れば、その学問もまた夢中の夢のみ。すなわちこれわが輩がもっぱら自食の説を主張して、いまだ真の学問を勧めざりし所以なり。ゆえにこの説は、あまねく徒食の輩に告ぐるものにて、学者に諭《さと》すべき言にあらず。
しかるに聞く、近日中律の旧友、学問につく者のうち、まれには学業いまだ半ばならずして早くすでに生計の道を求むる人ありと。生計もとより軽んずべからず。あるいはその人の才に長短もあることなれば、後来の方向を定むるはまことに可なりといえども、もしこの風を互いに相倣《あいなら》い、ただ生計をこれ争うの勢いに至らば、俊英の少年はその実を未熟に残《そこな》うの恐れなきにあらず。本人のためにも悲しむべし、天下のためにも惜しむべし。かつ生計難しといえども、よく一家の世帯を計れば、早く一時に銭を取りこれを費やして小安を買わんより、力を労して倹約を守り大成の時を待つに若《し》かず。学問に入らば大いに学問すべし。農たらば大農となれ、商たらば大商となれ。学者小安に安んずるなかれ。粗衣粗食、寒暑を憚《はばか》らず、米も搗《つ》くべし、薪も割るべし。学問は米を搗きながらもできるものなり。人間の食物は西洋料理に限らず、麦飯を食らい味噌汁を啜《すす》り、もって文明の事を学ぶべきなり。
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十一編
名分をもって偽君
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