たらざるの談なし。身心|流暢《りゅうちょう》して苦学もまた楽しく、したがって教えしたがって学び、学業の上達すること、世人の望外《ぼうがい》に出ず。その得、三なり。
一、古来、封建|世禄《せいろく》の風、我が邦に行われ、上下の情、相通ぜざること久し。ひとり私塾においては、遠近の人|相《あい》集《あつま》り、その交際ただ読書の一事のみにて他に関係なければ、たがいにその貴賤貧富を論ずるにいとまあらず。ゆえに富貴は貧賤の情実を知り、貧賤は富貴の挙動を目撃し、上下混同、情意相通じ、文化を下流の人に及ぼすべし。その得、四なり。
一、文学はその興廃を国政とともにすべきものにあらず。百年以来、仏蘭西にて騒乱しきりに起り、政治しばしば革《あらたま》るといえども、その文運はいぜんたるのみならず、騒乱の際にも、日に増し月に進み、文明を世界に耀《かがや》かしたるは、ひっきょう、その文学の独立せるがゆえならん。かつまた、文脩まれば武備もしたがって起り、仏人、牆《かき》に鬩《せめ》げども外その侮《あなどり》を禦《ふせ》ぎ、一夫も報国の大義を誤るなきは、けだしその大本《たいほん》、脩徳開知独立の文教にあり。今我邦に私塾を立つるも、この趣意を達せんとするなり。その得、五なり。
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 右所論の得失を概していえば、官学校は教育入用の財あれども、この財を用いて人を教うるの術に乏し。私学校は人を教えて世の裨益《ひえき》をなすべき術に富めるといえども、この術を実地に施すべき財に貧なり。ゆえに、学校を建つるの要訣《ようけつ》は、この得失を折衷《せっちゅう》して、財を有するものは財を費《ついや》し、学識を有するものは才力を尽し、もって世の便利を達するにあり。
 そもそも文学と政治と、その世に功徳《くどく》をなすの大小いかんを論ずるときは、此彼《しひ》、毫《ごう》も軽重の別なし。天下一日も政治なかるべからず、人間一日も文学なかるべからず、これは彼を助け、彼はこれを助け、両様並び行われて相《あい》戻《もと》らず、たがいに依頼して事をなすといえども、その地位はおのずから両立の勢《いきおい》をなせるものなれば、政治の囲範《いはん》に文学を繋《つな》ぐべからず。これすなわち学者をして随意に書を読ましめ、国典を犯すに非ざれば咎《とが》めざるゆえんなり。また、文学をもって政治を籠絡《ろうらく》すべからず
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