る。島田|髷《まげ》はまったく根が抜け、藤紫《ふじむらさき》のなまこ[#「なまこ」に傍点]の半掛けは脱《はず》れて、枕は不用《いらぬ》もののように突き出されていた。
 善吉はややしばらく瞬《またた》きもせず吉里を見つめた。
 長鳴《ちょうめい》するがごとき上野の汽車の汽笛は鳴り始めた。
「お、汽車だ。もう汽車が出るんだな」と、善吉はなお吉里の寝顔を見つめながら言ッた。
「どうしようねえ。もう汽車が出るんだよ」と、泣き声は吉里の口から漏れて、つと立ち上ッて窓の障子を開けた。朝風は颯《さッ》と吹き込んで、びッくりしていた善吉は縮み上ッた。

     七

 忍《しのぶ》が岡《おか》と太郎|稲荷《いなり》の森の梢には朝陽《あさひ》が際立ッて映《あた》ッている。入谷《いりや》はなお半分|靄《もや》に包まれ、吉原|田甫《たんぼ》は一面の霜である。空には一群一群の小鳥が輪を作ッて南の方へ飛んで行き、上野の森には烏《からす》が噪《さわ》ぎ始めた。大鷲《おおとり》神社の傍の田甫の白鷺《しらさぎ》が、一羽|起《た》ち二羽起ち三羽立つと、明日の酉《とり》の市《まち》の売場に新らしく掛けた小屋から二三|個《にん》の人が現われた。鉄漿溝《おはぐろどぶ》は泡《あわ》立ッたまま凍ッて、大音寺前の温泉の煙《けむ》は風に狂いながら流れている。
 一声《いっせい》の汽笛が高く長く尻を引いて動き出した上野の一番汽車は、見る見るうちに岡の裾を繞《めぐ》ッて、根岸に入ッたかと思うと、天王寺の森にその煙も見えなくなッた。
 窓の鉄棒を袖口を添えて両手に握り、夢現《ゆめうつつ》の界《さかい》に汽車を見送ッていた吉里は、すでに煙が見えなくなッても、なお瞬きもせずに見送ッていた。
「ああ、もう行ッてしまッた」と、呟《つぶ》やくように言ッた吉里の声は顫えた。
 まだ温気《あたたかみ》を含まぬ朝風は頬に※[#「石+乏」、第3水準1−88−93]《はり》するばかりである。窓に顔を晒《さら》している吉里よりも、その後に立ッていた善吉は戦《ふる》え上ッて、今は耐えられなくなッた。
「風を引くよ、吉里さん。寒いじゃアないかね、閉めちゃアどうだね」と、善吉は歯の根も合わないで言ッた。
 見返ッた吉里は始めて善吉を認めて、「おや、善さんでしたか」
「閉めたらいいだろう。吉里さん、風を引くよ。顔の色が真青だよ」
「あの汽車はどこ
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