美しきかなと讃美した作者は自身も相当のものであつた。この歌なども実感そのままを歌つたものと見てよからう。但し寺とせよといふ句は家を捐《す》てて寺とする平安文化の一事象から出て来たのであらうからその方に詳しい晶子さんでなければ云へない所だし、紅梅など根こじにこじて捨ててしまへなども実に面白い思ひ付きだ。

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雨去りて又水の音あらはるゝ静かなる世の山の秋かな
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 同じ時の歌。今思へば既に澆季に這入つてゐたといふものの、あの頃はまだ静かな世の中であつた、嘘のやうな話だが、それ故にこんな歌を詠めたのだ。晶子さんの事を思ふと私どもはいつもああいい時に死なれたと思ふ。晶子さんの神経の細さはとても戦禍などに堪へえられる際でない、さうしてその鋭さの故に、雨が止んで反つて水音の顕はれる山の秋の静けさもはつきり感ぜられるのである。同じ時朴の落葉を詠んだ歌に その広葉煩はしとも云ふやうに落とせる朴も悲しきならん といふのがあるが、この煩はしとも云ふやうな感じなどは、ただの神経の琴線には先づ触れない電波の一種ではなからうか。

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やはらかに
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