昭和九年七月赤城山上大沼でひどい霧に会はれたその時の歌。対岸の薬師山が忽ち化して霧になつたと思つたら、此の岸の板屋楓が今度は反つて薬師に化けた。をかしいこともあるものだといふ座興であるが、対岸の薬師山には恐らく薬師を本尊とするお寺か何かあるか、或は伝説でもあつて薬師に関係があるのであらう。さうでないと面白くない。

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物語二なき上手《じやうず》の話よりものの哀れを思ひ知りにき
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 私は嘗て年寄許りの席で老妓の昔話を聞いたことがある。大阪の話である。一つは滑らかな大阪弁がさうさせたのでもあつたらうが、私は感に堪へて聞いてゐた。この歌を読んでその時のことを思ひ出すが、確にもののあはれを思ひ知つたといふのであらう。恐らく誰にでもさういう体験はあらうか。

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恋をして徒になる命より髪の落つるは惜しくこそあれ
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 恋をすればいふ迄もなく命はすりへつてしまふ、かけ替のない命をすりへらすとは何といふ惜しいことだらう。しかしそれよりも尚惜しいのはこの頃のやうに髪の落ちることだ、かう毎日毎日落ちていつたら一体どうなるのだ。有形無形何れかと問はれた若い女の答である。

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山の霧焔なりせば如何ならん白き世とのみ見て許せども
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 これは実に恐ろしい想像である。霧が寄せて山も湖水も草も木も青白いものになつた。見るものはそれを白い世界が出来た位に安心して見てゐるが、もし霧でなくて火焔であつたらどんなものだらう、思つても恐ろしい事だと自分の空想に自分で怯へる不思議な歌である。

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やごとなき君王の妻《め》に等しきは我がごと一人思はるゝこと
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 作者にははじめ山川登美子さんといふ恋の競争者がゐて、その為にどれ程悩んだか知れなかつた。しかしそれは登美子さんの知つたことではなかつたし、その内この妹のやうなお友達も若くして世を去つたので、漸くこの歌のやうな境界が出現した。その後は多少の葛藤はあつても其の儘遂に変ることはなかつた。それを思ふと幸福な一生だつたと言はざるを得まい。この歌の嬉しさうな調子を見ればさう評して間違ひはあるまい。

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