これだけのことが色ならぬ色の分けたるで表現されてゐる。

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なつかしき心比べといと辛《から》き心比べと刻刻移る
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 劇が決闘であるやうに、愛も亦決闘である。唯常の状態ではそれが極めて温和に行はれる為少くも闘争の外観を示さず、「心比べ」といふ程の静的な様相を呈するのである。併しその本質はやはり決闘であつて、色々の種類の決闘が相ついで行はれる。懐しい決闘が行はれるかと思へば次には辛辣なのが行はれ、時間はどんどん立つてゆく。

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人間に灯の見まほしき欲ありと廊を踏みつつ知れる山の夜
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 これも前の闇の歌の続きである。長い廊を踏んで湯殿に通はうとするに、灯のついてゐる座敷とて一つもなく、山の夜は唯真暗で水の音のみその中に高い。ああ明りが欲しいと思ふとその瞬間人間には五欲の外に灯の見たい欲がも一つあつたのだといふことに気がついた。

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実《まこと》しき無き名なりけり実しき名なりし故に今日も偲ばゆ
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 無き名を立てられて思はぬ悲劇となり、又は大に困つたり、少くも迷惑した様な場合が昔からいろいろ歌にも詠まれてゐる。しかしこの歌のやうにそれが懐しい記憶となつて残つてゐる場合は恐らくないだらう。こんな体験は誰にでもあるのだらうが、今まで歌へないでゐたのを作者が取り出して歌つたのである。

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武蔵野の風の涼しき夜とならん登場したり文三と月と
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 この春(二十一年)栄養失調でなくなつた江南文三君である。文三君は近年先生の近くに住んでゐたので、いつもぶらりと出掛けたものらしい。そこで「登場したり」となるので、客のするやうな常の訪問でないことが分る。ぶらりとやつて来たのは文三許りでなく月も昇つた、けふは暑さもそれほどでない、今に風も出て涼しくならうから大にとぼけた話でもしませうといふ心持である。江南君は渋谷時代からの古いお弟子で少しエキセントリツクな人物だから「登場」することにもなるのである。

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なつかしきものを偽り次次に草の名までも云ひ続けけり
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 わたくしの一番なつかしいのはあなたですとそれが云へない許りに、清少納言のやうにそれほどでもない自然現象か
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