分から進んで歌ふことは余りなかつたことと思はれるが、作者は臆する処なく幾度か歌つてゐる。その時流れた涙の温度をノスタルジアのそれに比して明かにしてゐる。之亦生命の記録の一行として尊重さるべきであらう。

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夕明り葉無き木立が行く馬の脚と見えつつ風渡るかな
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 疎らな冬木立に夕明りがさして歩いてゆく馬の脚の様に思へる、そこへ風が吹いて来て寒むさうだ。馬の脚などといふとをかしい響きを伴ふのでぶちこわしになる恐れのあるのを、途中で句をきつてその難を免れてゐる所などそんな細かい注意まで払はれてゐる様だ。

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緋の糸は早く朽ち抜け桐の紋虫の巣に似る小琴の袋
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 家妻の為事に追はれ何年か琴など取り出して弾いたこともない。大掃除か何かで偶※[#二の字点、1−2−22]取り出されたのを見ると、縫ひ取つてあつた緋の糸は朽ち抜け桐の紋などは虫の巣の様になつてゐる。歳月の長さが今更思はれるといふ歌である。之より先楽器の袋を歌つた歌がも一つある。それは 精好《せいがう》の紅《あけ》と白茶の金欄の張交箱に住みし小鼓 といふので、之亦偶※[#二の字点、1−2−22]取り出して見た趣きであらう。精好とは精好織の略で絹織物の一種である。

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十二月今年の底に身を置きて人寒けれど椿花咲く
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 十二月今年の底とは何といふすばらしい表現だ。かういふ少しも巧まぬ自然さを達人の筆法といふ。十二月は作者の誕生しためでたい月で、その五十の賀が東京会館で祝はれた時も、鎌倉から持つて来た冬至の椿でテエブルが飾られ、椿の賀といはれた位で、早咲きの椿を十二月に見る事は作者に取つては嬉しいことなのである。

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粉黛の仮と命のある人と二あるが如き生涯に入る
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 生命のある真の人間と、人前に出る白粉をつけ紅をさした仮の人間と二人が同じく私の中に住むやうな生活がとうとう私にも来てしまつた。而してこの間までの若い純真さは半ば失はれてしまつたが、人生とは斯ういふものなのであらう。

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東京の裏側にのみある月と覚えて淡く寒く欠けたる
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 師走の空にかゝる十日位の半ば欠けた宵月の心持で、東京の裏側を
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