歌だからここにも抜くのである。

[#ここから2字下げ]
浅ましく涙流れていそのかみ古りし若さの血はめぐりきぬ
[#ここで字下げ終わり]

 枕言葉などいふのんきなものを我々はめつたに使はなかつたが、この石の上だけは晶子さんが時々使つた。オオルドミスといふ程でもない古女の場合が考へられる。恋など再びしようとは夢にも思つてゐなかつた古女が、人の情にほだされてうかうか近づいて行つたが、或日その人の告白と強い抱擁とに逢つたやうな場合ではないか。止め度もなく涙が流れ出る一方久しく眠つて居た昔の若い血が突然目を覚まして心臓から踊り出す。涙はいよいよ流れて止まない。そんなことではないかと思ふが如何であらうか。

[#ここから2字下げ]
我死なず事は一切顛倒す悲しむべしと歎きしはなし
[#ここで字下げ終わり]

 昭和九年正月雪の那須で病まれた夫人は一時相当の重態であつたらしく、寛先生は痛心の余り血を吐く様な歌を沢山詠んで居られる、この悲しむべしと歎くといふのがそれである。例へば 妻病めば我れ代らんと思ふこそ彼の女も知らぬ心なりけれ 我が妻の病めるは苦し諸々に我れ呻《うめ》かねど内に悲む 世の常の言葉の外の悲しみに云はで守りぬ病める我妻 など殆ど助からない様な様相を一時は呈したらしい。その時死ぬべきであつた私が死なずに事は一切顛倒し、歎いたものが逆に歎かれるものになつた不思議な運命を直截簡明に抒し去つたものだが、純情に対する純情の葛藤であるから人心を打たずには置かない。

[#ここから2字下げ]
これ天馬うち見るところ鈍の馬埴馬の如きをかしさなれど
[#ここで字下げ終わり]

 これ作者の自負であらう。作者は若くしてその異常な本分を発揮した為世間も早くから天才女と認めて清紫二女に比べ、自分もそれを感じてゐた。しかし一面美しくもなし、話は下手だし、字は拙し(後には旨くなつたが)、才気煥発などとは凡そ縁の遠い地味な存在でもある。見た所鈍な馬であり埴馬の様なをかしい馬だが[#「だが」は底本では「だか」]、これでも一度時至れば空をゆく天馬になれるのだ。あんまり見くびつて貰ひ度くないといふのであらう。何か憤る所でもあつて発したものであらう。

[#ここから2字下げ]
在《ま》し在さず定かならずも我れ思ひ人は主人《あるじ》の無しとする家
[#ここで字下げ終わり]

 この家の主人は死んでしま
前へ 次へ
全175ページ中68ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
平野 万里 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング