残りの書物を詰めて、それから間もなく東京へ出て来た。僕を置いてくれた、その家は、ガラスと板だけで出来ている奇妙な家屋だが、その二階の二・五米四方の一室に寝起するようになった。僕はその板敷の上で目が覚めるたびに、何か空漠とした天界から小さな箱のなかに振り落されている自分を見出す。僕のいる小さな箱のなかには、焼残ったわずかばかりの品物と僕のほかには何にもない。……何にもない、僕はもう過去を持っていない人間なのだろうか。眼が昏むほどお腹が空いて、板敷の上に横わっていると、すりガラス越しに箱の外の空気が僕の瞼の上に感じられる。窓の下のすぐ隣りの家には、ささやかな庭があって、萌えだしたばかりの若葉が縁側の白い障子に映っている。あそこには、とにかく、あのような生活があるのだ。僕が飢えて、じりじり痩せ衰えてゆくとしても、僕にはまだ夢のようなことを考えることができそうだ。夢は、この夢はどこから投影してくるのだろうか。メリメリと壊れそうなガラス窓に映っている緑色の光……あの光はお前なのか、それとも僕なのだろうか。
ある日、僕は何かに弾きだされたように、千葉の方へ出掛けて行った。あの家が残っているかどうか、僕にはわからなかったのだが、電車がその方向に接近して行くに随い、水蒸気を含んだ麦畑の崖が見えて来たりすると、僕は昔の僕に還っていた。家に戻れば、お前の病床もそのままあって、僕は何の造作もなくお前の枕頭に坐れるかもしれない……。その方向に接近するにつれ殆ど自分でも見定め難いさまざまの感覚がそっくり甦って来るようだった。僕はお前の側に坐るときの表情まで用意していた。……駅で電車を降りると、僕は一目見て、あたりの景色が以前のまま残っているのを知った。僕は勝手知った袋路の方へとっとと歩いて行った。すると、つい四五時間僕はこの場所を離れて他所へ行っていただけのような気持がした。ふと近所のおかみさんの顔が少し驚きを含んで僕の方を振向いていた。僕はあの家の七八歩手前で立ちどまった。僕の眼は板垣の外へ枝を張っている黐の樹の青葉に喰い入っていた。それから僕はあの家の方へ近づいた。それから僕は板垣の外から、あの狭い小さな庭にじっと目を注いでいた。すぐ向の縁側から、何かがちらっと爽やかに僕の眼に見えた。それは僕の心の内側の反映があの縁側にあったのだ。それは忽ち無限に展がってゆきそうだった。だが、気がつく
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