。そのように待ち望んでいるものを夢みていたのかもしれない。可憐の花の蕾や小鳥たちの模様に取囲まれて、朝毎に美しく揺らぐ透明な空気が何処かから僕を招いていたのだろうか。ふと僕は花の蕾の上に揺らぐ透明なのが刻々に何かもの狂おしく堪えがたくなってゆくような気分に襲われた。すると僕の眼のすぐ裏側には、美しい物語のなかの女の涙が凝と宿ってゆく。「世界はこんなに美しいのに……」とその嘆き声がききとれるようだった。……僕は嘆くような気持で家を出ると、街を通り抜けて、川に添う堤の白い路を歩いて行った。うっとりとしたものは僕の内側にも、僕の歩いて行く川岸にもあった。白い河原砂の向に青い水がひっそりと流れていた。その水の流れに浮かんで、石を運ぶ船がゆるやかに下ってゆく。石の重みのため胸まで水に浸っていながら進んでゆく船が何か人間の悲痛の姿のようにおもえた。僕の頭上を燕はしきりに飛び交わしていた。月見草の咲いている堤の叢に僕は腰を下ろすと、身体を後へ反らして寝転んで行った。すると眩しい太陽の光が顔一ぱいに流れて来た。僕は眼を閉じた。閉じた瞼の暗い底に赤い朧の塊りがもの狂おしく見えた。「世界はこんなに美しいのに、どうして人生は暗いのか」と僕はそっとひとり口吟んでいた。(この静かなふるさとの川岸にも惨劇の日はやって来たのだった。そして最後の審判の絵のように川岸は悶死者の群で埋められたのだが……)
僕はあのとき、あの静かな川岸で睡って行ったなら、どんな夢をみたのだろうか。その頃、僕のなかには幻の青い河が流れていたようだ。それも何かの書物で読んでからふと僕に訪れて来たイメージだったが、青い幻の河の流れは僕が夜部屋に凝と坐っていると、すぐ窓の外の楓の繁みに横わっているのではないかとおもわれた。が、そんなに間近かに感じられるとともに、殆ど無限の距離の彼方にそのイメージは流れていた。まだ、この世に生誕しない子供たちが殆ど天使にまがう姿で青い川岸の花園のなかに蹲っている。だが、子供たちは既にみなそれぞれ愛の宿命を背負っているのか、二人ずつ花蔭に寄り添って優しく羞しげに抱き合っているのだ。無数の花蔭のなかの無数の抱きあったやさしい姿、子供たちは青い光のなかに白く霞んで見えた。ちらりと僕はそのなかに僕もいるのではないかという気がした。
僕の喪失した記憶の疼きといったようなものが、いつも僕の夢見心地のなか
前へ
次へ
全10ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング