罹災以来、僕にのこされた、たつた一つの弱々しい抵抗の姿勢……それが僕に立戻つてくる。雑沓が僕をかすかな混乱に突きおとす。僕は前後左右から押されて駅のホームを歩いてゐる。生きる場所を喪つた人間がぐんぐん僕の方へのしかかり押してくる。僕は電車に押し込まれてゐる。僕は押されとほされてゐる。生きる場所を喪つた人間ならむしろ僕なのだが、僕の肩の骨が熱く疼く。僕の頤のすぐ側にある知らない人間の肩。ぎつしり詰つた肩のむかふから洩れてくる呻き……。物質の重量に挿まれて僕は何処かへ紛れ込んでしまひさうだ。かうした瞬間、かうした瞬間は何回繰返されてゐるのだらう。僕が死ぬる時、かうした窮屈な感覚はやはり痕跡を残すかもしれない。死んでゆく僕の幻覚に人間の固い肩が重なり、飢ゑてふらふらの僕を搾木でしめあげ……。靴の底にゆれる速度で、僕はときどきよろめく。かうした瞬間、僕は何を考へてゐるのだらう。僕は物質……肩は物質の……。やがて電車は僕の降りる駅に来て僕を放り出す。
僕は人間の群に押されて、駅の広場に出てゐる。ここはもうすつかり夕暮のやうだ。僕は電車通を越えて、焼残りの露地に入る。ここは死んだお前のあまり知らない場所だが、僕にとつてはずつと以前から知つてゐる一角なのだ。この焼残つた露地のつづきに、唐黍畑や、今、貧弱なバラツクの見えてゐるあたりに、昔、僕の下宿はあつた。かういふ曇つた夕暮前の時刻に、学生の僕はよく下宿を出てふらふらと歩きまはつた。薄弱で侘しい巷の光線は僕のその頃の心とそつくりだつた。僕の眼は大きな工場の塀に添つて、錆びついた鉄柱や柳の枯葉にそそがれた。そんな傷々しいものばかりが不思議に僕の眼を惹きつけてゐた。その頃、僕には友人がない訳ではなかつたし、僕の境遇は不幸といふのではなかつた。だが、何故かわからないが、僕はこの世のすべてから突離された存在だつた。僕にとつては、すべてが堪へがたい強迫だつた。低く垂れさがる死の予感が僕を襲ふと、僕は今にも粉砕されさうな気持だつた。僕はガラスのやうに冷たいものを抱きながら狂ほしげに歩きつづけた。するとクラクラとして次第に頭が火照つたものだ。
銀行か何かだつたらしい石段の焼残つた角から僕は表通りに出る。ここは殆ど焼跡の新築ばかりだ。電車の軌道は残されてゐるが電車の姿は見えない。僕のまはりにまつはる暮色と人通りはそはそはと動いてゆく。僕の背後から見憶えのある顔が二つ三つ僕を追ひこす。夜学の生徒なのだ。僕はいつあの生徒たちを憶えたのかしら……。瞬間、僕は教師のつもりになつてゐる。と、僕はずしんとする。剥ぎとられて叩きつけられた感覚だ。それが僕をふらふらさせる。と僕は何か見憶えのあるものの前に立ちどまつてゐる。新築の花屋だ。僕はシヨーウインドに近よる。僕はみとれる。みとれてゐる自分にみとれる。玻璃越しに見える花々がまるで追憶そつくりだ。さうだ、追憶はいま酒のやうに僕をふらふらさす。それに、このゴム底靴や凹凸の地面が、一そうふらふらさす。僕は何かもつと固い手応へを求めてゐるやうだ。何か整然とした一つの世界が僕に見えてくるやうだ。僕のまはりにまつはる雲母色の空気は殆どさきほどから、それを囁いてゐるのではないか。……その頃お前が入院してゐた病院は、野らも海も一目に見下ろせる高台の上にあつた。僕は澄んだ秋の光線のなかを、そこの坂の固い鋪道を靴の音を数へながら歩いてゐた。お前の病態は憂はしかつたし、僕の生きてゐる眼の前は暗澹としてゐたが、不思議に僕のなかには透明な世界が展がつて来た。坂の上に建つ、その殿堂のやうに大きな病院の、そのなかにお前の病室はあつたが、お前の病室と僕との距離に、いつも透明な光線が滑り込んでゐた。僕は自分の靴音を琺瑯質の無限の時間の中に刻まれる微妙な秒針のやうにおもひながら歩いてゐた。それから、僕がお前の病室を出て、坂の上に立つと、晩秋の空気は刻々に顫へて薄暗くなつてゆき、靄のなかには冷やかな思考と熱つぽいものが重なりあつてゐた。僕はあの靴の音をおもひ出さうとしてゐるのだ。
僕の歩いて行く方向に、今僕の行く学校の坂路がある。その高台に建つX大学の半焼の建物はひつそりとして夕暮のなかに見える。かすかに僕はあの病院へ通ふ坂路を歩いてゐるやうなつもりなのだが、ふと、もの狂ほしい弾力の記憶がこの坂から甦つてくる。学生の僕はこの坂路を歩くとき、突然あたり一杯に生命感が漲ることがあつた。僕は何かに抵抗するやうに、何かに僕自身を叩きつけるやうな気分に駆られて、もの凄い勢でこの坂を登つたものだ。五月の太陽は石段の上に輝いてゐて、あたりには大勢の学生がぞろぞろ歩いてゐた。坂に添ふ小さな溝がピカピカ光り、学生達は瀟洒な服装をしてゐた。クラクラする僕の頭上には高台の青葉が燃えてゐた。ほとんど僕は風のなかを驀進するやうな気持で歩いてゐた。
僕は今、よろよろと坂路を登つてゆく。僕の細長い影は力なく仄暗い風のなかにある。僕は殆ど乞食のやうな己れの恰好を疑はない。ここの石坂で僕はそつと煙草の捨殻を拾ひとることもあるのだ。そんなときの僕の姿は……。僕は後から後から次々に生徒に追越されてゐる。足許は既に暗い。ふと僕はそはそはしてくる。向うのコンクリートの三階建の校舎は生徒の群でざわざわしてゐる。僕の歩きかたも少しせかせかしてくる。僕は一階の廊下を廻つて、教員室の扉を押す。電燈の点いてゐるゴタゴタした部屋の片隅に僕は蝙蝠傘を置く。それから中央にある大きなテーブルに凭掛る。これが僕たち教員のテーブルなのだ。僕は出勤簿に印を押す。お茶を啜る。空腹がふと急に立ちもどつてくる。僕のまはりに教師たちが何か話しあつてゐる。電燈の色で見る先生の顔は何と侘しい暈なのだらう。僕はもう一杯お茶を啜る。今、廊下の外で頻りにドタドタ靴の音がしてゐる。誰か生徒が僕の側を通りすぎて、戸棚のところに行く。電球を持つて行くのだ。ああして生徒は毎日、電球を教室に持つて行つて着けたり、外づして持つて戻つたりするのだ。だが、そんなことが餓じい僕には珍しいのだらうか。部屋の隅にゐた小使がベルを振りだす。と、みんなそはそは廊下に出て行く。僕は壁に掛けてある出席簿を取り、箱の中からチヨークを二本把む。僕はそろそろ廊下に出て、三階まで階段を昇つてゆく。灯の点いてゐない階段は真暗で、僕は手探りで昇つてゆく。茫漠とした廊下の突当りの教室に灯が洩れてゐる。僕はそこの扉を押す。電燈の光のなかに四五十人の顔が蠢めいてゐる。僕は教壇の椅子に腰を下ろして、出席簿を机の上におく、パタンとそれをひらく。それから僕は急しげに生徒の名前を読みあげてゐる。僕の声が僕の耳にきこえる。(おや、こんな声だつたのか)これは僕が今日はじめて人間にむかつて声を出してゐるのだ。僕はくるりと後向きになつて、塗りのわるい黒板にプリントの字を書いてゆく。I can swim, Can I swim? You can swim, Can you ……ふと僕はチヨークを置いて、教壇を下りる。煤けた壁際に添つて、教室の後の方へ歩いてゆく。僕は眼をあげて黒板に書いてある自分の字を眺め、それから煤けて真黒の天井壁を眺める。天井からは何か黝ずんだ蜘蛛の巣のやうなものが、いくすぢも、いくすぢも、垂れ下つてゐる。あれは一たい何なのだらう。時間があんなところに痕跡を残してゐるのだらうか。
昔、僕がこの大学の予科に入学した頃は、この三階の建物はまだ新しく、僕には何か大きな素晴しい城砦のやうな気持がした。ある天気のいい日曜日の一日を僕は蓮華の咲いてゐる郊外の河岸をぶらぶらと歩いた。その翌朝もまるで磨きたてのやうに美しい朝だつた。僕はこの三階のバルコニーに立つてゐた。むかふに見える大きな邸の煉瓦塀や鬱葱と繁つてゐる楠の巨木や空を舞つてゐる鳶に僕は見とれてゐた。すると、僕はそれからのすべてを領有してゐるやうな幸な気分だつた。ふと僕の側に一人の友人がやつて来た。が、僕と彼とはお互に暫く黙つたまま同じ景色のなかにゐた。「僕たちの時代が来るね」ふと彼は呟いた。僕たちはその頃お互を立派な詩人になれると思ひ込んでゐたし、祝福はちやんと約束してあるやうにおもへた。
僕の立つてゐる窓の破れから、冷たい風が襟首を撫でる。僕は声を出してプリントを読みあげる。I can swim, Can I swim? You can ……喋りながら教室を歩く。なるべく疲労しないやうに、ふらふらと軽く……。それから椅子に戻つてくる。肩も足も疼くやうに熱つぽい。空腹で目もとは昏みさうになる。急に教室はざわざわしてくる。今ふらふらのこの半病人が生徒の眼にはどう映るのか。突然、僕は授業をやめてしまひたい衝動に駆られる。が、僕の眼は何かを探すやうにプリントに注いでゐる。なるべく疲労しないやうに、疲労しないやうに、と、その祈り……その祈りがふと僕に戻つてくる。僕はまた授業のつぎほを見つけてゆく。そのうちにベルが鳴る。僕は教員室に戻つてくる。
僕があの海の見える中学ではじめて教師になつたとき、その頃、お前は、寝たり起きたりの病人であつた。はじめて教壇に立つた僕はあべこべにまるで自分が中学生にされたやうに、剥きだしに晒された自分を怖れた。ときどき、僕は家に残つてゐる自分の影をおもつた。そんな弱々しい僕を病人のお前は労はつてくれようとした。その僕の影は……。僕は今、頻りにお茶を飲んで空腹を紛らしてゐる。すると小使が部屋の隅でベルを鳴らす。僕は疲労を鞭打つて立上る。暗い階段を匐ふやうに昇つて行く。灯のついた教室に入る。僕は黒板の方へ向く。消してない字で一杯の黒板を僕はおそるおそる困つたやうに眺める。それから思ひきつて黒板拭きで消してゆく。おびただしい白い粉が僕のまはりに散乱する。それは今、僕に吸はれてゐる。と、僕は朝の咳の発作をおもひだす。淡い淡いあぢさゐの花……。疲れないやうに、疲れないやうに、と軽い、軽い、祈り……。僕はふらふらと授業を続けてゐる。ベルが鳴る時間を待ちかまへてゐる。その時刻は電燈の光のなかにちらちらしてゐる。そして、ほんとにベルが鳴る。僕は手探りで階段を降り教員室へ戻つてくる。
蝙蝠傘を提げて、僕は坂を下りてゆく。坂の下の表通りの闇のなかの灯が眩しく、それは僕を吸ひ込みさうだ。夜の闇色と感触がずしんと深まつてゐて、今はまるで海のやうだ。僕はそのなかを泳ぐやうにして歩く。僕は電車通を越えて、省線駅に来る。暗いホームは人で一杯だが、電車は容易にやつて来ない。突立つてゐる僕の脚は棒のやうだ。突立つてゐる、昨日も今日も、それから恐らく明日も……。明るい灯のついた満員電車が僕の前で停まる。僕は棒のやうに押込まれてゆく。僕の胸を左右から人間が押してくる。押してくる人間のいきれが僕をつつんでゐる。僕は何を考へてゐるのだらうか。Can I swim? Can I swim? ……疲れないやうに、斃れないやうに、ふらふらの軽い、今日の勤めも果たした。それが今の僕の生活《くらし》を支へてくれるのではないのに、とにかく今日の今日も耐へて来た。それがとにかく僕に安心を与へてゐるのだらうか。人間のいきれ、……惨劇のなかに死んで行つた無数の人間、……吻と今、僕をつつんでゐる人間のいきれ、僕を滅茶苦茶に押してくる人間、人間の流れ――それが斃れさうな僕を逆に支へてゐるのかもしれない。……
僕は人間の流れに押出されて、電車から降りる。人間の流れは広い鋪道を越えて、急な石段をぞろぞろ上つてゆく。僕もそろそろと石段を上つて行く。ほの暗い路が三つに岐れて、人間の流れも三つに岐れる。僕はいつもの谷間のやうな、ひつそりした、ゆるい坂路を歩いてゐる。僕のまはりに疎らになつた人間の足音がまだ続いてゐる。僕の少し前方でききとれる、コツコツといふ固い靴の音……。帰宅を急ぐ足どりの音……。あれはどういふ人間なのだらうか。はつきりとリズムを刻んで進んでゆく静かな靴の音……。僕はそれに惹きつけられて、その後について歩いてゐる。コツコツといふ軽い快げな靴の音が僕の耳に鳴る。あれは明確な目的から目的へ静かに
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