てくる運命のやうに僕の額に印されてゐるのではないか。漂泊、流浪――そんな言葉ではない。でんぐりかへつて、地上に墜落したのだ。僕の額の上を外のポンプの音が流れ、惨劇の影がゆれてゐる。僕はお前と死別れると、その土地の家を畳んで、郷里の広島へ移つた。すると、あの惨劇の日がやつて来た。それから、僕は寒村に移つて飢餓の月日を耐へてきた。それから僕はその村を脱出するやうに、この春上京して来た。しかし、僕を容れてくれた、ここの家も……。
ふと、僕はさつきの発作をおもひだして、どきり[#「どきり」に傍点]とする。とこの固い寝床にくつついてゐる自分の背なかに、階下のありさまが、一枚の薄い天井板を隔てて、鏡のやうに透視されてくる。階下はまだ、しーんとしてゐるのだが、この冷んやりした奇怪なガラスの家の底には、何とも云ひやうのない憂悶が籠つてゐるのだ。たしかに、僕はあの咳を、この家の細君の耳に聴きとられたやうな気がする。と、僕には、このガラスの家全体が、しーんとして僕の息の一つ一つまで聴きとる装置のやうにおもへてくるのだ。
前から僕はこの家の主人に、医者に診てもらへと、そつと注意されてゐた。恐る恐る僕は一度、病院の門を潜つた。医者は衰弱してゐることのほかは何も云つてくれなかつた。それはむしろ僕を吻とさせた。このやうな恐ろしい飢餓の季節に、文無しの僕がどのやうな養生ができるのか。僕は、疲労しないやうに、疲労しないやうに、と、飢ゑ細つてゆく自分の体をなるべく、ただ静かにしてゐるだけであつた。だが、僕を視るこの家の細君の眼は、――それは僕がこの家で世話になりだした最初から穏やかではなかつたやうだが――次第に棘々しくなつてゐた。澱粉類の配給がばつたり杜絶えて、菜つぱと水ばかりで胃の腑を紛らしてゆく日がつづいてゐた。と、ある日たうとう、この家の細君の癇癪は爆発した。僕は地べたに叩き伏せられた犬のやうな気持がした。宿なしの罪業感が僕を発狂させさうだつた。僕は怯えはじめた。ひとりでに僕は、この家の人たちから隔離の状態に置かれた。主人は僕を憐むやうな眼つきで眺めてくれたが、もう遠慮がちに何も語らなかつた。細君は僕と顔を逢はすことを明かに避けてゐた。ただ内側に押し潰されて籠るものが、この家全体の無気味なものが、無言のまま僕をとりかこんだ。そして、これは僕がこの部屋にゐる限り絶えることのない苛責なのだ。
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