も、垂れ下つてゐる。あれは一たい何なのだらう。時間があんなところに痕跡を残してゐるのだらうか。
昔、僕がこの大学の予科に入学した頃は、この三階の建物はまだ新しく、僕には何か大きな素晴しい城砦のやうな気持がした。ある天気のいい日曜日の一日を僕は蓮華の咲いてゐる郊外の河岸をぶらぶらと歩いた。その翌朝もまるで磨きたてのやうに美しい朝だつた。僕はこの三階のバルコニーに立つてゐた。むかふに見える大きな邸の煉瓦塀や鬱葱と繁つてゐる楠の巨木や空を舞つてゐる鳶に僕は見とれてゐた。すると、僕はそれからのすべてを領有してゐるやうな幸な気分だつた。ふと僕の側に一人の友人がやつて来た。が、僕と彼とはお互に暫く黙つたまま同じ景色のなかにゐた。「僕たちの時代が来るね」ふと彼は呟いた。僕たちはその頃お互を立派な詩人になれると思ひ込んでゐたし、祝福はちやんと約束してあるやうにおもへた。
僕の立つてゐる窓の破れから、冷たい風が襟首を撫でる。僕は声を出してプリントを読みあげる。I can swim, Can I swim? You can ……喋りながら教室を歩く。なるべく疲労しないやうに、ふらふらと軽く……。それから椅子に戻つてくる。肩も足も疼くやうに熱つぽい。空腹で目もとは昏みさうになる。急に教室はざわざわしてくる。今ふらふらのこの半病人が生徒の眼にはどう映るのか。突然、僕は授業をやめてしまひたい衝動に駆られる。が、僕の眼は何かを探すやうにプリントに注いでゐる。なるべく疲労しないやうに、疲労しないやうに、と、その祈り……その祈りがふと僕に戻つてくる。僕はまた授業のつぎほを見つけてゆく。そのうちにベルが鳴る。僕は教員室に戻つてくる。
僕があの海の見える中学ではじめて教師になつたとき、その頃、お前は、寝たり起きたりの病人であつた。はじめて教壇に立つた僕はあべこべにまるで自分が中学生にされたやうに、剥きだしに晒された自分を怖れた。ときどき、僕は家に残つてゐる自分の影をおもつた。そんな弱々しい僕を病人のお前は労はつてくれようとした。その僕の影は……。僕は今、頻りにお茶を飲んで空腹を紛らしてゐる。すると小使が部屋の隅でベルを鳴らす。僕は疲労を鞭打つて立上る。暗い階段を匐ふやうに昇つて行く。灯のついた教室に入る。僕は黒板の方へ向く。消してない字で一杯の黒板を僕はおそるおそる困つたやうに眺める。それから思
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