かもしれない。そのかはりサラリーはてんでお話になりませんよ」
O先生は気の毒げに彼を眺めてゐたが、「広島にゐた方がよかつたかもしれんね」と呟いた。
それから二三日して、三田の学校へO先生を訪ねて行くと、その時も先生は不在だつた。まだ転入のとれない彼はひどく不安定な気分だつたが、ふと新橋行の切符を買ふと、銀座へ行つてみる気になつた。……来てみるとそこは柳の新緑と人波と飾窓が柔かい陽光のなかに渦巻いてゐる。飾窓の銀皿に盛られた真紅な苺が彼をハツとさせた。どの飾窓からも、彼の昔の記憶にあるものや、今新しく見るものがチラチラしてゐた。彼はふらふらとデパートに入るとスピード籤を引く人の列に加はつてゐた。まるで家出した田舎娘のやうな気持だつた。これはどうしたことなのだらう、いつたい、これからどうなるのだらう、と彼は人混のなかで見失ひさうになる自分を怪しんだ。
文化学院に知人を訪ねようと思つて、大森駅から省線に乗ると、その朝は珍しく席がゆつくりしてゐた。だが、次の駅でどかどかとプラツカードを抱へた一群が乗込んで来ると、車内は異様な空気に満たされた。「三菱の婿、幣原を倒せ」そんな文字の読みとられ
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