か何かに見入つてゐる姿勢で、白骨が残されてゐたといふ。纔かの目じるしで、それらの姓名も判明してゐた。が、T先生の消息は不明であつた。先生はその朝まだ工場には姿を現してゐなかつた。しかし、先生の家は細工町のお寺で、自宅にゐたにしろ、途上だつたにしろ、恐らく助かつてはゐさうになかつた。
その先生の清楚な姿はまだ私の目さきにはつきりと描かれた。用件があつて、先生の処へ行くと、彼女はかすかに混乱してゐるやうな貌で、乱暴な字を書いて私に渡した。工場の二階で、私は学徒に昼休みの時間英語を教へてゐたが、次第に警報は頻繁になつてゐた。爆音がして広島上空に機影を認めるとラジオは報告してゐながら、空襲警報も発せられないことがあつた。「どうしますか」と私は先生に訊ねた。「危険さうでしたらお知らせしますから、それまでは授業してゐて下さい」と先生は云つた。だが、白昼広島上空を旋回中といふ事態はもう容易ならぬことであつた。ある日、私が授業を了へて、二階から降りて来ると、T先生はがらんとした工場の隅にひとり腰掛けてゐた。その側で何か頻りに啼声がした。ボール箱を覗くと、雛が一杯蠢いてゐた。「どうしたのです」と訊ねると、「生徒が持つて来たのです」と先生は莞爾笑つた。
女の子は時々、花など持つて来ることがあつた。事務室の机にも活けられたし、先生の卓上にも置かれた。工場が退けて生徒達がぞろぞろ表の方へ引上げ、路上に整列すると、T先生はいつも少し離れた処から監督してゐた。先生の掌には花の包みがあり、身嗜のいい、小柄な姿は凜としたものがあつた。もし彼女が途中で遭難してゐるとすれば、あの沢山の重傷者の顔と同じやうに、想つても、ぞつとするやうな姿に変り果てたことだらう。
私は学徒や工員の定期券のことで、よく東亜交通公社へ行つたが、この春から建物疎開のため交通公社は既に二度も移転してゐた。最後の移転した場所もあの惨禍の中心にあつた。そこには私の顔を身憶えてしまつた、色の浅黒い、舌足らずでものを云ふ、しかし、賢こさうな少女がゐた。彼女も恐らく助かつてはゐないであらう。戦傷保険のことで、よく事務室に姿を現してゐた、七十すぎの老人があつた。この老人は廿日市町にゐる兄が、その後元気さうな姿を見かけたといふことであつた。
どうかすると、私の耳は何でもない人声に脅やかされることがあつた。牛小屋の方で、誰かが頓狂な喚
前へ
次へ
全16ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング