――鉄道が不通になったとか、広島の橋梁《きょうりょう》が殆ど流されたとかいうことをきいたのは、それから二三日後のことであった。
私は妻の一周忌も近づいていたので、本郷町の方へ行きたいと思った。広島の寺は焼けてしまったが、妻の郷里には、彼女を最後まで看病《みと》ってくれた母がいるのであった。が、鉄道は不通になったというし、その被害の程度も不明であった。とにかく事情をもっと確かめるために廿日市駅へ行ってみた。駅の壁には共同新聞が貼《は》り出され、それに被害情況が書いてあった。列車は今のところ、大竹・安芸中野《あきなかの》間を折返し運転しているらしく、全部の開通見込は不明だが、八本松・安芸中野間の開通見込が十月十日となっているので、これだけでも半月は汽車が通じないことになる。その新聞には県下の水害の数字も掲載してあったが、半月も列車が動かないなどということは破天荒のことであった。
広島までの切符が買えたので、ふと私は広島駅へ行ってみることにした。あの遭難以来、久し振りに訪れるところであった。五日市まではなにごともないが、汽車が己斐《こい》駅に入る頃から、窓の外にもう戦禍の跡が少しずつ展望される。山の傾斜に松の木がゴロゴロと薙倒《なぎたお》されているのも、あの時の震駭《しんがい》を物語っているようだ。屋根や垣がさっと転覆した勢をその儘《まま》とどめ、黒々とつづいているし、コンクリートの空洞《くうどう》や赤錆《あかさび》の鉄筋がところどころ入乱れている。横川駅はわずかに乗り降りのホームを残しているだけであった。そして、汽車は更に激しい壊滅区域に這入《はい》って行った。はじめてここを通過する旅客はただただ驚きの目を瞠《みは》るのであったが、私にとってはあの日の余燼《よじん》がまだすぐそこに感じられるのであった。汽車は鉄橋にかかり、常盤橋《ときわばし》が見えて来た。焼爛《やけただ》れた岸をめぐって、黒焦の巨木は天を引掻《ひっか》こうとしているし、涯《は》てしもない燃えがらの塊《かたまり》は蜿蜒《えんえん》と起伏している。私はあの日、ここの河原《かわら》で、言語に絶する人間の苦悩を見せつけられたのだが、だが、今、川の水は静かに澄んで流れているのだ。そして、欄干の吹飛ばされた橋の上を、生きのびた人々が今ぞろぞろと歩いている。饒津《にぎつ》公園を過ぎて、東練兵場の焼野が見え、小高
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