の姿をしていた。その時から孤独のきびしい世界が二人の眼の前に見えて来たようだった。彼は追詰められた気分のなかにも何か新しく心が研《と》がれて澄んでゆくようだった。それは多少の甘え心地を含んだ世界ではあったが、ぼんやりと夢のような救いがどこかに佇《たたず》んでいるのではないかと思えた。……熱にうるんだ妻の眼はベッドのなかでふるえていた。
「こないだ、三階から身投げした女がいるのです。あなたの病気は死ななきゃ治《なお》らないと云われて……」
冷え冷えとした内庭に面した病室の窓から向側の棟《むね》をのぞむと、夕ぐれ近い乳白色の空気が硬《かた》い建物のまわりにおりて来て、内庭の柱の鈴蘭灯《すずらんとう》に、ほっと吐息のような灯がついていた。あのもの云わぬ灯の色は今でも彼の眼に残っているのだったが……。
だが、彼はつい先日その大学病院を訪《たず》ねて行って大先生に来診を求めたときの情景がまざまざと甦ってくる。看護婦が持って来た四五枚のレントゲン写真を手にして眺め入ったまま、大先生は暫《しばら》く何も語らない。それから妻の入院中の診断書類を早目に一読していたが、
「それでは今日の夕方お伺いしましょう」と彼に来診を約束した。それから、大先生が来るということは彼の妻にとっては大変な期待となった。妻はわざわざ新しい寝巻に着替えて約束の時刻を待っている。彼は家の外に出て俥《くるま》の姿を待った。冷えて降りだしそうな暗い空に五位鷺《ごいさぎ》が叫んでとおりすぎる。そうして待ち佗《わ》びていると、ふと彼は遠い頼《たよ》りない子供の心に陥落されていた。俥がやって来たのは彼が待ち佗びて家に戻って来た後だった。大先生は妻の枕頭に坐って、丁寧に診察をつづける。羽毛をとりだして病人の足の裏を撫《な》でてみたり、ものなれた慎重な身振りだったが、鞄《かばん》から紙片をとり出すと、すらすらと処方箋《しょほうせん》を書いた。
「二週間分の処方をしておきますから、当分これを飲みつづけて下さい」
そうして、大先生は黙々と忙しそうに立上る。彼が後を迫って家の外に出ると、既に俥は走りだしている。それは何か熱いものが通過した後のようにぐったりした心地だった。さきほどまで気の張りつめていたらしい妻も、ひどく悲しく疲れ顔で押し黙っている。さきほど用意したまま出しそびれていた蜜柑《みかん》の罐詰《かんづめ》が彼の目にとまった。それを皿に盛って妻の枕頭に置くと、
「ああ、おいしい」妻は寝たまま、まるで心の渇《かわ》きまで医《いや》されるように、それを素直にうけとる。佗しく暗い気分のなかに、ふと蜜柑の色だけが吻と明るく浮んでいるのだった。……だが、その翌日彼が街に出て処方箋どおり求めて来た散薬は、もう妻の口にまるで喜びを与えなかった。何かはっきりしないが、眼に見えて衰えてゆくものがあった。気疎《けうと》そうな顔つきで、妻はぼんやりと焦点のさだまらぬ眼つきをしている。あの弱々しい眼のなかから、パッと一つの明るいものが浮びあがったら……彼は電車の片隅《かたすみ》でぼんやりと思い耽《ふけ》っていた。
今にも降りだしそうな冷え冷えしたものは、そのまま持ちつづいて、街も人も影のように薄暗かった。家を出てから続いている時間が今でも彼には不安な容態そのもののようにおもえた。映画会社の廊下を廻り演出課のルームに入っても、彼は影のように壁際《かべぎわ》に佇《たたず》んでいた。
「奥さんの病気はどうかね」と友人が話しかけて来た。
「よくない」彼はぽつんと答えた。こんな会話をするようになったのかと、ふと彼には重苦しく愁わしいものがつけ加えられるようだった。
冷え冷えとしたものは絶えずみうちに顫えてくるようだったが、試写室に入ると、いつものように巨大な機械力の流れが眼の前にあった。フィルムの放つ銀色の影も速度も音響もその構成する意味も、彼にはただ、やがて破滅の世界にむかって突入している奔流のように無気味におもえた。だが、無数の無表情のなかに、ふと心|惹《ひ》かれる悲しげな顔が見えてくることもある。ふと、その時、試写室の扉が開いて廊下の方から誰か呼出しの声がした。瞬間、彼はハッと自分の名が呼ばれたのではないかと惑った。……試写が終ってドカドカと明るい廊下の方へ人々が散じると、重苦しい魔ものの影の姿も移動する。狭い演出課のルームの椅子は一杯になり議論が始るのだった。だが、こうして、こんな場所に彼が今生きていることは、まるで何かの間違いのようにおもえてくる。今は魘《うな》されるような感覚ばかりが彼をとりまいているのだった。刻々にふるえる佗しいものが会社を出て鋪道《ほどう》を歩きながらも、彼に附きまとっていた。混みあう電車に揺られながら、彼はじっと何か悲痛なものに堪えている心境だった。だが、電車が広漠とした野を走りつづけ、見馴れた芋畑や崖《がけ》の叢《くさむら》が窓の外に見えて来たとき、外はしきりに雨が降りつづいていた。まるで、それは堪えかねて、ついに泣き崩《くず》れてしまったものの姿だ。こんなにも悲しい、こんなにも悲しいのか、……何が? 冷え冷えとした真暗な底に突落されてゆく感覚が彼の身うちに喰込《くいこ》んで来る。こんなにも悲しい、こんなにも悲しいのか、何が……? この訳のわからぬ感傷は今かぎりのものなのだろうか、やがて別の日が訪れてくれば消え失せてしまうのだろうか……ぼんやりと彼がおもい惑っていると、ぼっと電灯がついて車内は明るくなった。と、灯のついている彼の家の姿が、びしょ濡《ぬ》れの闇《やみ》のなかにもすぐ描かれた。
「お母さん、お母さん」
今、目ざめたばかりの彼はふと隣室で妻のかすかな声をきくと、寝床を出て台所の方にいる母親に声をかけた。それから、その弱々しいなかにも何か訴えを含んでいる声にひきつけられて、彼は妻の枕頭《ちんとう》にそっと近寄ってみた。妻の顔は昨夜からひきつづいている不機嫌《ふきげん》な苛々《いらいら》したものを湛《たた》えていた。だが、それは故意にそうしている顔ではなく、何かもう外界の空気に堪《た》えられなくなり、外界から拒否されたものの姿らしかった。瞼《まぶた》はだるそうに窄《すぼ》められ、そこから細く覗《のぞ》いている眸《ひとみ》はぼんやりと力なく何ものかを怨《えん》じていた。
……一週間前に、妻は小さな手帳に鉛筆で遺書を認《したた》めていた。枕頭に置かれていたので彼も読んでそれは知っていた。けれども、それを認めた妻も読んだ彼も、ほんとうに別離が切迫したものとはまだ信じきれないようだったのだ。
昨日の夕方、電車を降りて彼が暗い雨のなかを急込《せきこ》んで戻ってくると、家には灯のついた病室が待っていた。彼は妻の枕頭に屈《かが》んで「どうだったか」と訊《たず》ねた。
「今日は気分も軽かったのに、お母さんがひとりでおろおろされるので何か苛々しました」
枕頭に食べさしの林檎《りんご》が置いてあった。林檎が届いたら、と長い間持ち望んでいたのだが、注文の荷が届いたときには、これはもう彼女の口にあわなくなっていたのだ。ふと、妻は指の爪《つめ》で唇《くちびる》の薄皮をむしりとろうとした。
「どうしてそんなことをするのだ」
「…………」妻は無言で唇の皮を引裂いた。
……今、朝の光線で見ると、昨夜|傷《きず》けた唇はひどく痛々しそうだった。やがて、母親が食膳《しょくぜん》を運んでくると妻は普段のように箸《はし》をとった。だが、忽《たちま》ち悲しげに顔を顰《しか》めた。それから、つらそうに無理強《むりじ》いに食事をつづけようとした。殆《ほとん》ど何かにとり縋《すが》るようにしながら悶え苦しんで食事を摂《と》ろうとする姿は見るに堪えなかった。これははじめて見る異様な姿だった。それから重苦しい時間が過ぎて行った。昼の食事は母親がいくらすすめても遂《つい》に摂ろうとしなかった。日が暮れるに随《したが》って、時間は小刻みに顫えながら過ぎて行った。
夕食の用意が出来て枕頭に置かれた。が、妻は母親のすすめる食事を厭《いと》うように、わずかに二箸ばかり手をつけるだけだった。電灯のあかりの下に、すべてが薄暗くふるえていた。食後の散薬を呑《の》んだかとおもうと、間もなく妻は吐気を催して苦しみだした。今、目には見えないが針のようなものがこの部屋のなかに降りそそいでくるようだった。
……ずっと以前から彼も妻も「死」についてはお互によく不思議そうな嘆きをもって話しあっていた。人間の最後の意識が杜絶《とだ》える瞬間のことを殆ど目の前に見るように想像さえしていた。少女の頃、一度危篤に瀕《ひん》したことのある妻は、その時見た数限りない花の幻の美しかったことをよく話した。それから妻は入院中の体験から死んでゆく人のうめき声も知っていた。それは、まるで可哀相《かわいそう》な動物が夢でうなされているような声だ、と妻は云っていた。彼も「死」の幻影には絶えず脅かされていた。が、今の今、眼の前に苦しみだしている妻が死に吹き攫《さら》われてゆくのかどうか、彼にはまだわからなかった。「死」が彼よりさきに妻のなかを通過してゆくとは、昔から殆ど信じられないことだったのだ。だが、たとえ今「死」が妻に訪れて来たとしても、眼の前にある苦しみの彼方《かなた》に妻はもう一つ別の美しい死を招きよせるかもしれない。それは日頃から彼女の底にうっすらと感じられるものだった。彼も今、最も美しいものの訪れを烈《はげ》しく祈った。…………
胃にはもう何も残っていそうもないのに、妻はまだ苦しみつづけた。これはまるで訳のわからぬことだった。
「よく腹を立てるから腹にしこりが出来たのかな」彼はふと冗談を云っていた。
「この頃ちょっとも腹は立てなかったのに」と妻は真面目《まじめ》そうに応《こた》えた。そのうちに、妻は口の渇《かわ》きを訴えて、氷を欲しがった。隣室で母親は彼に小声で云った。
「もう唾液《だえき》がなくなったのでしょう」
それから母親は近所で氷の塊《かたま》りを頒《わ》けてもらって来た。氷があったので彼は吻《ほっ》と救われたような気がした。氷は硝子《ガラス》の器から妻の唇を潤おした。うとうとと眼を閉じたまま妻の痛みはいくらか落着いてくるようだった。
夜はもう更《ふ》けていた。彼は別室に退いて横臥《おうが》していた。が、暫くすると母親に声をかけられた。
「お腹《なか》を撫《な》でてやって下さい。あなたに撫でてもらいたいと云っています」
彼は妻の体に指さきで触れながら、苦しみに揉《も》まれてゆくような気がした。妻の苦しみは少し鎮《しず》まっては、また新しく始って行った。彼は茫《ぼう》とした心のなかに、熱い熱い疼《うず》きがあった。これが最後なのだろうか。それなら……。だが、今となってはもう妻にむかって改めてこの世の別れの言葉は切りだせそうもなかった。言い残すかもしれない無数のおもいは彼のなかに脈打っていた。妻はまた氷を欲しがった。それからまた吐き気を催し、ぐったりとしていた。
「もう少しすれば夜が明けるよ」
かたわらに横臥して、そんなさりげないことを話しかけると、妻は静かに頷《うなず》く。そうしていると、まだ妻に救いが訪れてくるようで、もう長い長い間、二人はそんな救いを待ちつづけていたような気もした。そして、これは彼|等《ら》の穏やかな日常生活の一ときに還《かえ》ってゆくようでさえあった。だが、ふと吃驚《びっくり》したように妻は胸のあたりの苦しみを訴えだした。その声は今|迄《まで》の声とひどく異っていた。それは魔にうなされたように、哀切な声になってゆく。愕然《がくぜん》として、彼も今その声にうなされているようだった。病苦が今この家全体を襲いゆさぶっているのだ。
彼が玄関を出ると、外は仄暗《ほのぐら》い夜明だった。どこの家もまだ戸を鎖《とざ》していたが、町医のベルを押すと、灯がついて戸は開いた。医者は後からすぐ行くことを約束した。
家に戻って来ると、妻の苦悶《くもん》はまだ続いていた。「つらいわ、つらいわ」と、とぎれとぎれに声
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