いて、殆どその儘火事場の方へ押寄せて行った。近づくに随って、「森」「森の家だ」と喚く声が号一の耳にも聴きとれた。

 人垣が密になって、もう一歩も進めないところまで号一は来た。それでも号一は後から押され間されて、何時の間にか繩のところまで来てゐた。パッと明るい世界が眼の前で躍った。号一は片方の手を懐に入れながら、自分の家が焼けるのに見とれてゐた。荒れ狂ふ火焔が映画のつづきでも見てゐるやうな感じであった。
「森!」と誰かが耳許で呼んだ。振返ると中学の教師が何か興奮しきって、彼を手招いてゐるのであった。

 それからまた数年後のある夏の午後であった。号一は渋谷の食堂でカレイライスを註文した。彼のテーブルのすぐ隣りにはよく肥えた顔の厳しい紳士が腰を下してゐた。号一の前にはナプキンに包んだスプーンだけが直ぐに運ばれて来た。見識らぬ紳士もカレイライスを註文《とほ》してゐたものとみえて、その男の前にはやがて料理の皿が運ばれた。ところが、その男はなかなか食ひさうな気色《けはい》がなかった。よく視るとその男の方にはスプーンがないのであった。紳士はボーイを呼ばうとして焦って、舌打ちしながら、「スプーン!
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング