ことがあるので、多分その所為だらうと云はれてゐましたが、東京の家へ戻つて来てから、少しづつ意識が変になつて、癲癇のやうな徴候が生じるのです。しまひには御不浄に通ふことさえ本人の意志どほり行かなくなつたので、家族に持てあまされてゐました。癲癇なら外科手術で治療できるかもしれないといふので病院に入院さされてゐました。ところが入院して四五日目に亡くなつてしまつたのです。それで病院ではその人の頭を解剖してみました。すると脳のいたるところに小さな白い繭が出来てゐるのです。脳のなかに寄生虫が一杯ゐたわけなのです」
 ふと私は自分の脳に何か暗い影が横切るやうな気持だつたが、恰度そこへSが帰つて来た。それで話はすぐ他の話題に移つて行つた。が、暫くすると、Sもやはり脳のなかにある白い繭のことから余程シヨツクをうけてゐるらしく、不安な顔つきで奇怪な病気のことを云ひだした。それは私がSの細君から聞いた筋と同じだつたが、その病気がエヒモコツクスという寄生虫のためらしいこと、普通その寄生虫は警魚といふ中国の魚にゐて刺身などから感染すること、人体にとりつくと全身いたるところに切傷のやうな傷跡を発生するが、それが脳にまで侵入することは全く稀有のことらしい、とSは新しい註釈をつけ加へた。
「その山宮泉は昔、芥川龍之介論で『歯車』のことを書いていて、人間の脳の襞を無数の蝨《しらみ》が喰ひ荒らしてゆく幻想をとりあげてゐるのだが……」と、Sは何か暗合のおそろしさをおもふやうな顔つきをした。それからSと細君は明日S学園で行はれるその告別式の都合を話合つてゐたが、Sは明日都合つかないので細君に是非代理で出てくれと頼み、山宮泉には、友人も身内も少ないので一人でも沢山行つてやつた方がいいと云つてゐるのだつた。「山宮」「山宮泉」ときいてゐるうち私はさきほどから私の脳の一点を何か掠めてゆくものがあるやうにおもへた。
「その山宮といふ人はもしかするとK大の文科を出た人ではないかしら」
「あ、学校はK大だつた……」
「あ、あの男かしら」と私はうなだれて考へ込んだ。
「へえ、知つてゐたのですか」とSは驚いた。
 知つてゐたといふ程の間柄でもなかつた。昔その男と私は三度ばかり口をきいたことがある。そして一度私に葉書をくれたことがあつた。その葉書に山宮泉とあつたのが、その微かな記憶がふと私の脳に点火されたのだつた。私はその簡単な経緯をSに話した。
「へえ、それは珍しい。山宮にはK大の方の友人はなかつたやうだが、それでは明日はあなたも一つ都合ついたら告別式に出てやつてくれませんか」
 山宮は学校を出て女学校へ勤務してゐるうち、Sたちのグループに加はり、太平洋戦争前まで尖鋭な文学論の筆をとつてゐた。学校を出ると私は東京を離れ殆ど孤立して暮してゐたので、こんなことを私がはつきり知るのも今がはじめてだつた。私は明日気がむいたら告別式に出席するかもしれないと約して、Sの家を辞した。
 私の記憶にのこつてゐる面影では、ひどく神経質らしい相手だつたが、その男がその後生き難い時代をどのやうに生きてゐたのだらうか。一生に三度ばかり口をきいた男、脳に悲劇が発生して惨死した男……私は何かしーんとした底で茫然とするのだつた。

 それは満州事変の始まる前の年の晩秋の午後のことだつた。K大学の合併授業で、私は自分の席から少し離れた前の席に着席した男の机の上に置いてある書物の表紙をちらりと見た。ローザ・ルクセンブルグ「経済学入門」その題名が私の注意を惹くと時々そつと私はその男を眺めだした。後から見る首筋や耳や髪の生え具合に何か烈しさうなものがあるのが私の眼に残つた。授業がすんで学生の群が坂をぞろぞろ降りて行くなかに、私は何気なくやはりその男を追ふやうにして歩いてゐた。電車通の舗道に出て、もう少し行くと道が曲つてしまふが、その男は私のすぐ前横にゐる。私はもつと彼の側に近寄つて行つた。
「ちよつとお話したいことがあるのですが」
 私はたうとう相手に声をかけてゐた。相手はひどく喫驚したやうに立どまつた。私も自分が思ひ切つて声をかけたことに驚いてゐたが、
「さつき教室で見かけましたので」と云ひかかると、
「あなたはほんとにK大の学生ですか」と相手は警戒的に私をじろじろ眺めた。私はレインコートとハンチングの服装だつた。
「一寸ここでお茶でも飲みませんか」
 私は目の前の喫茶店を指した。固い表情のまま相手はそれでも私について喫茶店に入つた。間もなく私は短刀直入にR・Sのことを話しだしてゐた。すると相手はすぐ私の言ふことを諒解したやうで、態度もすつかり平静になつてゐた。
「では廿五日の午後二時に飯田橋駅の入口のベンチで待つてゐますから」と私は約束して別れた。
 約束の日に私は飯田橋駅のベンチで待つてゐた。私は未だかつて自分で見
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