だ想像してみるだけで現実には知らない彼であった。現実の女は美しく悩しいだらうが、同時に醜く重苦しいものにちがひない。
これまで彼の周囲の凡ては美しかったが、同時に醜く重苦しかった。
今日は一切の重苦しいもの、汗臭いものが除かれて、ただ透明な美しいものが眼の前に現れた。
紫色の島が静かな海に霞んで見える。その島の一端にモーター・ボート用の棧橋がある、棧橋の下の水が透き徹って見える。腹に鮮やかな縞のある魚がチラリと見え隠れする。この景色は透明な輪となって消えて行った。
澄んだ山を背景にしてゐる寺の山門を潜ると、はっとするやうな空の青さである。寺の庭に萩の花が咲き、松風がかうかうと鳴ってゐる。これも透明な輪となった。
川上の砂原のまっ白な礫の上を蝶々が飛んでゐる。堤の方に菜の花が波打ってゐるのだ。広々とした礫の原で、川はほんの纔か一すぢ青く見える。陽炎のなかを白帆が行く。その白帆も透明な輪。
松が夕ぐれの空に一つ澄んでゐる堤の材木屋の前の藁屋根の船の上に霙が降り出した。透明。
牛込見附の堀の芝生が春雨に濡れた電車の窓から見える。透明に消えた。
松山城は淡雪だ。透明。
鈴蘭燈の並んだ狭いアスファルトの街に人が一杯で、ふと店さきのショー・ウインドーを見ると、独逸製のカットグラスが透明になって消えた。
(彼は誰かの泣声を聞いた。女の声らしかった。)
何故泣くのかと訝《いぶか》りながら、濃い藍色の闇を潜って行くと、生駒山のトンネルを潜ってゐるらしかった。向ふにステンド・グラスのやうな空間が懐しく見える。明るい昼がひかへてゐるらしい。しかしトンネルを出たやうな気がした時、そこは矢張り彼の生れた街の一角だった。橋のたもとへ出てゐて、それも夜であった。妖婦的な女が笑った。その金歯がはっきりと彼の目に映る。早くそれも透明な輪になれ、と彼はぢっと待った。
底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店
1966(昭和41)年2月15日
入力:蒋龍
校正:小林繁雄
2009年6月18日作成
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