来た。再び飢餓がつづいた。生存は拒まれつづけた。苦役ははてしなかつた。何のために何のための苦役なのか。わからない、僕にはわからない、僕にはわからないのだ。だが、僕のなかで一つの声がかう叫びまはる。
僕は堪へよ、堪へてゆくことばかりに堪へよ。僕を引裂くすべてのものに、身の毛のよ立つものに、死の叫びに堪へよ。それからもつともつと堪へてゆけよ、フラフラの病ひに、飢ゑのうめきに、魔のごとく忍びよる霧に、涙をそそのかすすべての優しげな予感に、すべての還つて来ない幻たちに……。僕は堪へよ、堪へてゆくことばかりに堪へよ。最後まで堪へよ、身と自らを引裂く錯乱に、骨身を突刺す寂寥に、まさに死のごとき消滅感にも……。それからもつともつと堪へてゆけよ、一つの瞬間のなかに閃く永遠のイメージにも、雲のかなたの美しき嘆きにも……。
お前の死は僕を震駭させた。病苦はあのとき家の棟をゆすぶつた。お前の堪へてゐたものの巨きさが僕の胸を押潰した。
おんみたちの死は僕を戦慄させた。死狂ふ声と声とはふるさとの夜の河原に木霊しあつた。
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真夏ノ夜ノ
河原ノミヅガ
血ニ染メラレテ ミチアフレ
声ノカギリヲ
チカラノアリツタケヲ
オ母サン オカアサン
断末魔ノカミツク声
ソノ声ガ
コチラノ堤ヲノボラウトシテ
ムコウノ岸ニ ニゲウセテユキ
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それらの声はどこへ逃げうせて行つただらうか。おんみたちの背負されてゐたギリギリの苦悩は消えうせたのだらうか。僕はふらふら歩き廻つてゐる。僕のまはりを歩き廻つてゐる無数の群衆は……僕ではない。僕ではない。僕ではない。僕ではなかつたそれらの声はほんたうに消え失せて行つたのか。それらの声は戻つてくる。僕に戻つてくる。それらの声が担つてゐたものの壮厳さが僕の胸を押潰す。戻つてくる、戻つてくる、いろんな声が僕の耳に戻つてくる。
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アア オ母サン オ父サン 早ク夜ガアケナイノカシラ
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窪地で死悶えてゐた女学生の祈りが僕に戻つてくる。
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兵隊サン 兵隊サン 助ケテ
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鳥居の下で反転してゐる火傷娘の真赤な泣声が僕に戻つてくる。
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アア 誰カ僕ヲ助ケテ下サイ 看護婦サン 先生
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真黒な口をひらいて、きれぎれに弱々しく訴へてゐる青年の声が僕に戻つてくる、戻つてくる、戻つてくる、さまざまの嘆きの声のなかから、
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ああ つらい つらい
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と、お前の最後の声が僕のなかできこえてくる。さうだ、僕は今漸くわかりかけて来た。僕がいつ頃から眠れなくなつたのか、何年間僕が眠らないでゐるのか。……あの頃から僕は人間の声の何ごともない音色のなかにも、ふと断末魔の音色がきこえた。面白さうに笑ひあつてゐる人間の声の下から、ジーンと胸を潰すものがひびいて来た。何ごともない普通の人間の顔の単純な姿のなかにも、すぐ死の痙攣や生の割れ目が見えだして来た。いたるところに、あらゆる瞬間にそれらはあつた。人間一人一人の核心のなかに灼きつけられてゐた。人間の一人一人からいつでも無数の危機や魂の惨劇が飛出しさうになつた。それらはあつた。それらはあつた。それらはあつた。それらはあつた。それらはきびしく僕に立ちむかつて来た。僕はそのために圧潰されさうになつてゐるのだ。僕は僕に訊ねる。救ひはないのか、救ひはないのか。だが、僕にはわからないのだ。僕は僕の眼を捩ぎとりたい。僕は僕の耳を截り捨てたい。だが、それらはあつた、それらはあつた、僕は錯乱してゐるのだらうか。僕のまはりをぞろぞろ歩き廻つてゐる人間……あれは僕ではない。僕ではない。だが、それはあつた。それらはあつた。僕の頭のなかを歩き廻つてゐる群衆……あれは僕ではない。僕ではない。だが、それらはあつた。それらはあつた。
それらはあつた。それらはあつた。と、ふと僕のなかで、お前の声がきこえてくる。昔から昔から、それらはあつた、と……。さうだ、僕はもつともつとはつきり憶ひ出せて来た。お前は僕のなかに、それらを視つめてゐたのか。僕もお前のなかに、それらを視てゐたのではなかつたか。救ひはないのか、救ひはないのか、と僕たちは昔から叫びあつてゐたのだらうか。それだけが、僕たちの生きてゐた記憶ではなかつたのか。だが救ひは。僕にはやはりわからないのだ。お前は救はれたのだらうか。僕にはわからない。僕にわかるのは救ひを求める嘆きのなかに僕たちがゐたといふことだけだ。そして僕はゐる、今もゐる、その嘆きのなかにつらぬかれて生き残つてゐる。そしてお前はゐる、今もゐる、恐らくはその嘆きのかなたに……。
救ひはない、救ひはない、と、ふと僕のなかで誰かの声がする。僕はおどろく。その声は君か。友よ、友よ、遠方の友よ、その声は君なのか。忽ち僕の眼のまへに若い日の君のイメージは甦る。交響楽を、交響楽を、人類の大シンフオニーを夢みてゐた友よ。人間が人間とぴたりと結びつき、魂が魂と抱きあひ、歓声が歓声を煽りかへす日を夢みてゐた友よ。あの人類の大劇場の昂まりゆく波のイメージは……。だが(救ひはない、救ひはない)と友は僕に呼びつづける。(沈んでゆく、沈んでゆく、一切は地下に沈んでゆく。それすら無感覚のわれわれに今救ひはないのだ。一つの魂を救済することは一つの全生涯を破滅させても今は出来ない。奈落だ、奈落だ、今はすべてが奈落なのだ。今はこの奈落の底を見とどけることに僕は僕の眼を磨ぐばかりだ。)友よ、友よ、遠方の友よ、かなしい友よ、不思議な友よ。堪へて、堪へて、堪へ抜いてゐる友よ。救ひはないのか、救ひはないのか。……僕はふらふら歩き廻る。やつぱし歩き廻つてゐるのか。僕のまはりを歩きまはつてゐる群衆。僕の頭のなかの群衆。やつぱし僕は雑沓のなかをふらふら歩いてゐるのか。雑沓のなかから、また一つの声がきこえてくる。ゆるいゆるい声が僕に話しかける。
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〈ゆるいゆるい声〉
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……僕はあのときパツと剥ぎとられたと思つた。それからのこのこと外へ出て行つたが、剥ぎとられた後がザワザワ揺れてゐた。いろんな部分から火や血や人間の屍が噴き出てゐて、僕をびつくりさせたが、僕は剥ぎとられたほかの部分から何か爽やかなものや新しい芽が吹き出しさうな気がした。僕は医やされさうな気がした。僕は僕のなかに開かれたものを持つて生きて行けさうだつた。それで僕はそこを離れると遠い他国へ出かけて行つた。ところが僕を見る他国の人間の眼は僕のなかに生き残りの人間しか見てくれなかつた。まるで僕は地獄から脱走した男だつたのだらうか。人は僕のなかに死にわめく人間の姿をしか見てくれなかつた。「生き残り、生き残り」と人々は僕のことを罵つた。まるで何かわるい病気を背負つてゐるものを見るやうな眼つきで。このことにばかり興味をもつて見られる男でしかないかのやうに。それから僕の窮乏は底をついて行つた。他国の掟はきびしすぎた。不幸な人間に爽やかな予感は許されないのだらうか……。だが、僕のなかの爽やかな予感はどうなつたのか。僕はそれが無性に気にかかる。毎日毎日が重く僕にのしかかり、僕のまはりはだらだらと過ぎて行くばかりだつた。僕は僕のなかから突然爽やかなるものが跳ねだしさうになる。だが、だらだらと日はすぎてゆく……。僕のなかの爽やかなものは、……だが、だらだらと日はすぎてゆく。僕のなかの、だが、だらだらと、僕の背は僕の背負つてゐるものでだんだん屈められてゆく。
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〈またもう一つのゆるい声が〉
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……僕はあれを悪夢にたとへてゐたが、時間がたつに随つて、僕が実際みる夢の方は何だかひどく気の抜けたもののやうになつてゐた。たとへば夢ではあのときの街の屋根がゆるいゆるい速度で傾いて崩れてゆくのだ。空には青い青い茫とした光線がある。この妖しげな夢の風景には恐怖などと云ふより、もつともつとどうにもならぬ郷愁が喰らひついてしまつてゐるやうなのだ。それから、あの日あの河原にずらりと竝んでゐた物凄い重傷者の裸体群像にしたところで、まるで小さな洞窟のなかにぎつしり詰め込められてゐる不思議と可憐な粘土細工か何かのやうに夢のなかでは現れてくる。その無気味な粘土細工は蝋人形のやうに色彩まである。そして、時々、無感動に蠢めいてゐる。あれはもう脅迫などではなささうだ。もつともつとどうにもならぬ無限の距離から、こちら側へ静かにゆるやかに匍ひ寄つてくる憂愁に似てゐる。それから、あの焼け失せてしまつた家の夢にしたところで、僕の夢のなかでは僕の坐つてゐた畳のところとか、僕の腰かけてゐた窓側とかいふものはちよつとも現れて来ず、雨に濡れた庭石の一つとか、縁側の曲り角の朽ちさうになつてゐた柱とか、もつともつとどうにもならぬ侘しげなものばかりが、ふはふはと地霊のやうにしのび寄つてくる。僕と夢とあの惨劇を結びつけてゐるものが、こんなに茫々として気が抜けたものになつてゐるのは、どうしたことなのだらうか。
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〈更にもう一つの声がゆるやかに〉
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……わたしはたつた一人生き残つてアフリカの海岸にたどりついた。わたしひとりが人類の最後の生き残りかとおもふと、わたしの躯はぶるぶると震へ、わたしの吐く息の一つ一つがわたしに別れを告げてゐるのがわかる。わたしの視てゐる刹那刹那がすべてのものの終末かとおもふと、わたしは気が遠くなつてゆく。なにものももうわたしで終り、なにものももうわたしから始らないのかとおもふと、わたしのなかにすべての慟哭がむらがつてくる。わたしの視てゐる碧い碧い波……あんなに碧い波も、ああ、昔、昔、……人間が視ては何かを感じ何かを考へ何かを描いてゐたのだらうに、……その碧い碧い波ももうわたしの……わたし以前のしのびなきにすぎない。死・愛・孤独・夢……さうした抽象観念ももはやわたしにとつて何にならう。わたしの吐く息の一つ一つにすべての記憶はこぼれ墜ち、記号はもはや貯えおくべき場を喪つてゆく。ああ、生命《いのち》……生命……これが生命あるものの最後の足掻なのだらうか。ああ、生命、生命、……人類の最後の一人が息をひきとるときがこんなに速くこんなに速くもやつてきたのかとおもふと、わたしのなかにすべての悔恨がふきあがつてくる。なぜに人間は……なぜに人間は……なぜ人間は……ああ、しかし、もうなにもかもとりかへしのつかなくなつてしまつたことなのだ。わたしひとりではもはやどうにもならない。わたしひとりではもはやどうしやうもない。わたしはわたしの吐く息の一つ一つにはつきりとわたしを刻みつけ、まだわたしの生きてゐることをたしかめてゐるのだらうか。わたしはわたしの吐く息の一つ一つに吸ひ込まれ、わたしの無くなつてゆくことをはつきりとあきらめてゐるのだらうか。ああ、しかし、もうどちらにしても同じことのやうだ。
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〈更にもう一つの声が〉
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……わたしはあのとき殺されかかつたのだが、ふと奇蹟的に助かつて、ふとリズムを発見したやうな気がした。リズムはわたしのなかから湧きだすと、わたしの外にあるものがすべてリズムに化してゆくので、わたしは一秒ごとに熱狂しながら、一秒ごとに冷却してゆくやうな装置になつた。わたしは地上に落ちてゐたヴアイオリンを拾ひあげると、それを弾きながら歩いてみたが、わたしの霊感は緊張しながら遅緩し、痙攣しながら流動し、どこへどう伸びてゐくのかわからなくなる。わたしは詩のことも考へてみる。わたしにとつて詩は、(詩はわななく指で みだれ みだれ 細い文字の こころのうづき)だが、わたしにとつて詩は、(詩は情緒のなかへ崩れ墜ちることではない、きびしい稜角をよぢのぼらうとする意志だ)わたしは人波のなかをはてしなくはてしなくさまよつてゐるやうだ。わたしが発見したとおもつたのは衝動だつ
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