受取ると、わたしは一つの危機を脱したやうな気がしたものだ。それからわたしは急いで歩いた。急がなければ、急がなければ、後から何かが追かけてくる。わたしは急いで歩いてゐるはずだつたが、ときどきぼんやり立どまりさうになつた。後姿はまだチラついた。
家に戻つても落着けなかつた。わたしはよほどどうかしてゐる。わたしはよほどどうかしてゐる。今すぐ今すぐしつかりしないと大変なことになりさうだつた。わたしはわたしを支へようとした。わたしはわたしに凭れかかつた。ゆるくゆるくゆるんで行く睡い瞼のすぐまのあたりを凄い稲妻がさツと流れた。わたしはうとうと睡りかかるとハツとわたしは弾きかへされた。後姿がまたチラついた。青いわたしの脊髄の闇に……。
わたしはわたしに迷はされてゐるらしい。わたしはわたしに脅えだしたらしい。何でもないのだ、何でもないのだ、わたしなんかありはしない。昔から昔からわたしはわたしをわたしだと思つたことなんかありはしない。お盆の上にこぼれてゐた水、あの水の方がわたしらしかつた。水、……水、……水、……わたしは水になりたいとおもつた。青い蓮の葉の上でコロコロ転んでゐる水銀の玉、蜘蛛の巣をつたつて走る一滴の水玉、そんな優しい小さなものに、そんな美しい小さなものに、わたしはなれないのかしら。わたしはわたしを宥めようとおもふと、静かな水が眼の前をながれた。静かな水は苔の上をながれる。小川の水が静かに流れる。あつちからもこつちからも川が流れる。白帆が見える、燕が飛んだ。川の水はうれしげに海にむかつて走つた。海はたつぷりふくらんでゐた。たのしかつた。うれしさうだつた、懐しかつた。鴎がヒラヒラ閃いてゐた。海はひろびろと夢をみてゐるやうだつた。夢がだんだん仄暗くなつたとき、突然、海の上を光線が走つた。海は真暗に割れて裂けた。わたしはわたしに弾きかへされた。わたしはわたしにいらだちだした。わたしはわたしだ、どうしてもわたしだ。わたしのほかにわたしなんかありはしない。わたしはわたしに獅噛みつかうとした。わたしは縮んで固くなつてゐた。小さく小さく出来るだけ小さく、もうこれ以上小さくなれなかつた。もうこれ以上は固まれさうになかつた。わたしはわたしだ、どうしてもわたしだ。小さな殻の固いかたまり、わたしはわたしを大丈夫だとおもつた。とおもつた瞬間また光線が来た。わたしは真二つに割られてゐたやうだ
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