はふらふらと歩いてゐる。僕のまはりがふらふらと歩いてくる。群衆のざわめきのなかに、低い、低い、しかし、絶えまなくきこえてくる、悲しい、やはらかい、静かな、嘆くやうに美しい、小さな小さな囁き、僕もその囁きにきき入りたいのだが、……。やつぱし僕のまはりはざわざわ揺れてゐる。揺れてゐるなかから、ふと声がしだした。お絹の声が僕にきこえた。

[#ここから2字下げ]
〈お絹の声〉
[#ここで字下げ終わり]

 わたしはあの時から何年間夢中で走りつづけてゐたのかしら。あの時わたしの夫は死んだ。わたしの家は光線で歪んだ。火は近くまで燃えてゐた。わたしの夫が死んだのを知つたのは三日目のことだつた。わたしの息子はわたしと一緒に壕に隠れた。わたしは何が終つたのやら何が始つたのやらわからなかつた。火は消えたらしかつた。二日目に息子が外の様子を見て戻つて来た。ふらふらの青い顔で蹲つた。何か嘔吐してゐた。あんまりひどいので口がきけなくなつてゐたのだ。翌日も息子はまた外に出て街のありさまをたしかめて来た。夫のゐた場所では誰も助かつてゐなかつた。あの時からわたしは夢中で走りださねば助からなかつた。水道は壊れてゐた。電燈はつかなかつた。雨が、風が吹きまくつた。わたしはパタンと倒れさうになる。
 足が、足が、足が、倒れさうになるわたしを追い越してゆく。またパタンと倒れさうになる。足が、足が、足が、倒れさうになるわたしを追い越してゆく。息子は父のネクタイを闇市に持つて行つて金にかへてもどる。わたしは逢ふ人ごとに泣ごとを云つておどおどしてゐた。だがわたしは泣いてはゐられなかつた。泣いてゐる暇はなかつた。おどおどしてはゐられなかつた。走りつづけなければ、走りつづけなければ……。わたしはせつせつとミシンを踏んだ。ありとあらゆる生活の工夫をつづけた。わたしが着想することはわたしにさへ微笑されたが、それでもどうにか通用してゐた。中学生の息子はわたしを励まし、わたしの助手になつてくれた。走りつづけなければ、走りつづけなければ……。わたしの夢のなかでさへさう叫びつづけた。
 突然、パタンとわたしは倒れた。わたしはそれからだんだん工夫がきかなくなつた。わたしはわたしに迷はされて行つた。青い三日月が焼跡の新しい街の上に閃いてゐる夕方だつた。わたしがミシン仕事の仕上りをデパートに届けに行く途中だつた。わたしは雑沓のなかで
前へ 次へ
全30ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング