暗な長いひだるい悲しい夜の路を歩きとほした。生きるために歩きつづけた。生きてゆくことができるのかしらと僕は星空にむかつて訊ねてみた。自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。僕を歩かせてゆくのも死んだ人たちの嘆きだ。お前たちは星だつた。お前たちは花だつた。久しい久しい昔から僕が知つてゐるものだつた。僕は歩いた。僕の足は僕を支へた。僕の眼の奥に涙が溜るとき、僕は人間の眼がこちらを見るのを感じる。
人間の眼。あのとき、細い細い糸のやうに細い眼が僕を見た。まつ黒にまつ黒にふくれ上つた顔に眼は絹糸のやうに細かつた。河原にずらりと並んでゐる異形の重傷者の眼が、傷ついてゐない人間を不思議さうに振りむいて眺めた。不思議さうに、不思議さうに、何もかも不思議さうな、ふらふらの、揺れかへる、揺れかへつた後の、また揺れかへりの、おそろしいものに視入つてゐる眼だ。水のなかに浸つて死んでゐる子供の眼はガラス玉のやうにパツと水のなかで見ひらいてゐた。両手も両足もパツと水のなかに拡げて、大きな頭の大きな顔の悲しげな子供だつた。まるでそこへ捨てられた死の標本のやうに子供は河淵に横はつてゐた。それから死の標本はいたるところに現れて来た。
人間の死体。あれはほんたうに人間の死骸だつたのだらうか。むくむくと動きだしさうになる手足や、絶対者にむかつて投げ出された胴、痙攣して天を掴まうとする指……。光線に突刺された首や、喰ひしばつて白くのぞく歯や、盛りあがつて喰みだす内臓や……。一瞬に引裂かれ、一瞬にむかつて挑まうとする無数のリズム……。うつ伏せに溝に墜ちたものや、横むきにあふのけに、焼け爛れた奈落の底に、墜ちて来た奈落の深みに、それらは悲しげにみんな天を眺めてゐるのだつた。
人間の屍体。それは生存者の足もとにごろごろと現れて来た。それらは僕の足に絡みつくやうだつた。僕は歩くたびに、もはやからみつくものから離れられなかつた。僕は焼けのこつた東京の街の爽やかな鈴懸の朝の舗道を歩いた。鈴懸は朝ごとに僕の眼をみどりに染め、僕の眼は涼しげなひとの眼にそそいだ。僕の眼は朝ごとに花の咲く野山のけはひをおもひ、僕の耳は朝ごとにうれしげな小鳥の声にゆれた。自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かして僕を感動させるものがあるなら
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