夜。僕のなかでなりひびく夜の歌。
生の深みに、……僕は死の重みを背負いながら生の深みに……。死者よ、死者よ。僕をこの生の深みに沈め導いて行ってくれるのは、おんみたちの嘆きのせいだ。日が日に積み重なり時間が時間と隔たってゆき、遙《はる》かなるものは、もう、もの音もしないが、ああ、この生の深みより、あおぎ見る、空間の荘厳さ。幻たちはいる。幻たちは幻たちは嘗《かつ》て最もあざやかに僕を惹《ひ》きつけた面影となって僕の祈願にいる。父よ、あなたはいる、縁側の安楽椅子に。母よ、あなたはいる、庭さきの柘榴《ざくろ》のほとりに。姉よ、あなたはいる、葡萄棚《ぶどうだな》の下のしたたる朝露のもとに。あんなに美しかった束《つか》の間《ま》に嘗ての姿をとりもどすかのように、みんな初々《ういうい》しく。
友よ、友よ、君たちはいる、にこやかに新しい書物を抱《かか》えながら、涼しい風の電車の吊革《つりかわ》にぶらさがりながら、たのしそうに、そんなに爽やかな姿で。
隣人よ、隣人よ、君たちはいる、ゆきずりに僕を一瞬感動させた不動の姿でそんなに悲しく。
そして、妻よ、お前はいる、殆ど僕の見わたすところに、最も近く最も遙かなところまで、最も切なる祈りのように。
死者よ、死者よ、僕を生の深みに沈めてくれるのは……ああ、この生の深みより仰ぎ見るおんみたちの静けさ。
僕は堪えよ、静けさに堪えよ。幻に堪えよ。生の深みに堪えよ。堪えて堪えて堪えてゆくことに堪えよ。一つの嘆きに堪えよ。無数の嘆きに堪えよ。嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。還るところを失った僕をつらぬけ。突き離された世界の僕をつらぬけ。
明日、太陽は再びのぼり花々は地に咲きあふれ、明日、小鳥たちは晴れやかに囀《さえず》るだろう。地よ、地よ、つねに美しく感動に満ちあふれよ。明日、僕は感動をもってそこを通りすぎるだろう。
[#地から2字上げ](昭和二十四年八月号『群像』)
底本:「夏の花・心願の国」新潮文庫、新潮社
1973(昭和48)年7月30日初版発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2002年1月1日公開
2006年2月5日修正
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