た。鏡があった。お前の側には鏡があった。鏡に窓の外の若葉が少し映っていた。僕は鏡に映っている窓の外のほんの少しばかし見える青葉に、ふと、制し難い郷愁が湧《わ》いた。「もっともっと青葉が一ぱい一ぱい見える世界に行ってみないか。今すぐ、今すぐに」お前は僕の突飛すぎる調子に微笑した。が、もうお前もすぐキラキラした迸《ほとばし》るばかりのものに誘われていた。軽い浮々したあふるるばかりのものが湧いた。一人の人間に一つの調子が湧くとき、すぐもう一人の人間にその調子がひびいてゆくこと、僕がふと考えているのはこのことなのだろうか。
 僕はもっとはっきり思い出せそうだ。僕は僕の向側にいる。鏡があった。あれは僕が僕というものに気づきだした最初のことかもしれなかった。僕は鏡のなかにいた。僕の顔は鏡のなかにあった。鏡のなかには僕の後の若葉があった。ふと僕は鏡の奥の奥のその奥にある空間に迷い込んでゆくような疼《うず》きをおぼえた。あれは迷《ま》い子《ご》の郷愁なのだろうか。僕は地上の迷い子だったのだろうか。そうだ、僕はもっとはっきり思い出せそうだ。
 僕は僕の向側にいた。子供の僕ははっきりと、それに気づいたのではなかった。が、子供の僕は、しかしやはり振り墜《おと》されている人間ではなかったのだろうか。安らかな、穏やかな、殆《ほとん》ど何の脅迫の光線も届かぬ場所に安置されている僕がふとどうにもならぬ不安に駆りたてられていた。そこから奈落《ならく》はすぐ足もとにあった。無限の墜落感が……。あんな子供のときから僕の核心にあったもの、……僕がしきりと考えているのはこのことだろうか。僕はもっとはっきり思い出せそうだ。
 僕は僕の向側にいる。樹木があった。僕は樹木の側に立って向側を眺めていた。向側にも樹木があった。あれは僕が僕というものの向側を眺めようとしだす最初の頃かもしれなかった。少年の僕は向側にある樹木の向側に幻の人間を見た。今にも嵐《あらし》になりそうな空の下を悲痛に叩《たた》きつけられた巨人が歩いていた。その人の額には人類のすべての不幸、人間のすべての悲惨が刻みつけられていたが、その人はなお昂然《こうぜん》と歩いていた。獅子《しし》の鬣《たてがみ》のように怒った髪、鷲《わし》の眼のように鋭い目、その人は昂然と歩いていた。少年の僕は幻の人間を仰ぎ見ては訴えていた。僕は弱い、僕は弱い、僕は僕はこんなに弱いと。そうだ、僕はもっとはっきり思い出さなければならない。僕は弱い、僕は弱い、僕は弱いという声がするようだ。今も僕のなかで、僕のなかで、その声が……。自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕のなかでまたもう一つの声がきこえてくる。

 僕はソファを立上る。僕は歩きだす。案内人は何処《どこ》へ行ったのかもう姿が見えない。僕はひとりで、陳列戸棚《ちんれつとだな》の前を茫然《ぼうぜん》と歩いている。僕はもうこの記念館のなかの陳列戸棚を好奇心で覗《のぞ》き見る気は起らない。僕の想像を絶したものが既に発明され此処《ここ》に陳列してあるとしても、はたしてこれは僕の想像を絶したものであろうか。そのものが既に発明されて此処に陳列してあること、陳列されてあること、陳列してあるということ、そのことだけが僕の想像を絶したことなのだ。僕は憂鬱《ゆううつ》になる。僕は悲惨になる。自分で自分を処理できない狂気のように、それらは僕を苦しめる。僕はひとり暗然と歩き廻って、自分の独白にきき入る。泉。泉。泉こそは……
 そうだ、泉こそはかすかに、かすかな救いだったのかもしれない。重傷者の来て呑《の》む泉。つぎつぎに火傷者の来て呑む泉。僕はあの泉あるため、あの凄惨《せいさん》な時間のなかにも、かすかな救いがあったのではないか。泉。泉。泉こそは……。その救いの幻想はやがて僕に飢餓が迫って来たとき、天上の泉に投影された。僕はくらくらと目くるめきそうなとき、空の彼方《かなた》にある、とわの泉が見えて来たようだ。それから夜……宿なしの僕はかくれたところにあって湧きやめない、とわの泉のありかをおもった。泉。泉。泉こそは……。
 僕はいつのまにか記念館の外に出て、ふらふら歩き廻っている。群衆は僕の眼の前をぞろぞろと歩いているのだ。群衆はあのときから絶えず地上に汎濫《はんらん》しているようだ。僕は雑沓《ざっとう》のなかをふらふら歩いて行く。僕はふらふら歩き廻っている。僕にとって、僕のまわりを通りこす人々はまるで纏《まとま》りのない僕の念想のようだ。僕の頭のなか、僕の習癖のなか、いつのまにか、纏りのない群衆が氾濫している。僕はふと群衆のなかに伊作の顔を見つけて呼びとめようとする。だが伊作は群衆のなかに消え失せてしまう。ふと、僕の眼にお絹の顔が見えてくる。僕が声をかけようとしていると彼女もまた群衆のなかに紛《まぎ》れ失せている。僕は茫然とする。そうだ、僕はもっとはっきり思い出したい。あれは群衆なのだろうか。僕の念想なのだろうか。ふと声がする。
〈僕の頭の軟弱地帯〉 僕は書物を読む。書物の言葉は群衆のように僕のなかに汎濫してゆく。僕は小説を考える。小説の人間は群衆のように僕のなかに汎濫してゆく。僕は人間と出逢《であ》う。実在の人間が小説のようにしか僕のものと連結されない。無数の人間の思考・習癖・表情それらが群衆のようにぞろぞろと歩き廻る。バラバラの地帯は崩《くず》れ墜《お》ちそうだ。
〈僕の頭の湿地帯〉 僕は寝そびれて鶏の声に脅迫されている。魂の疵《きず》を掻《か》きむしり、掻きむしり、僕は僕に呻吟してゆく。この仮想は僕なのだろうか。この罪ははたして僕なのだろうか。僕は空転する。僕の核心は青ざめる。めそめそとしたものが、割りきれないものが、皮膚と神経に滲《にじ》みだす。空間は張り裂けそうになる。僕はたまらなくなる。どうしても僕はこの世には生存してゆけそうにない。逃げ出したいのだ。何処かへ、何処か山の奥に隠れて、ひとりで泣き暮したいのだ。ひとりで、死ぬる日まで、死ぬる日まで。
〈僕の頭の高原地帯〉 僕は突然、生存の歓喜にうち顫《ふる》える。生きること、生きていること、小鳥が毎朝、泉で水を浴びて甦《よみがえ》るように、僕のなかの単純なもの、素朴なもの、それだけが、ただ、僕を爽《さわ》やかにしてくれる。
〈僕の頭の……〉
〈僕の頭の……〉
〈僕の頭の……〉
 僕には僕の歌声があるようだ。だが、僕は伊作を探《さが》しているのだ。伊作も僕を探しているのだ。それから僕はお絹を探しているのだ。お絹も僕を探そうとする。僕は伊作を知っている。僕はお絹を知っている。しかし伊作もお絹も僕の幻想、僕の乱れがちのイメージ、僕の向側にあるもの、僕のこちら側にあるもの……。ふと声がしだした。伊作の声が僕にきこえた。

  〈伊作の声〉

 世界は割れていた。僕は探していた。何かをいつも探していたのだ。廃墟《はいきょ》の上にはぞろぞろと人間が毎日歩き廻った。人間はぞろぞろと歩き廻って何かを探していたのだろうか。新しく截《き》りとられた宇宙の傷口のように、廃墟はギラギラ光っていた。巨《おお》きな虚無の痙攣《けいれん》は停止したまま空間に残っていた。崩壊した物質の堆積《たいせき》の下や、割れたコンクリートの窪《くぼ》みには死の異臭が罩《こも》っていた。真昼は底ぬけに明るくて悲しかった。白い大きな雲がキラキラと光って漾《ただよ》った。朝は静けさゆえに恐しくて悲しかった。その廃墟を遠くからとりまく山脈や島山がぼんやりと目ざめていた。夕方は迫ってくるもののために佗《わび》しく底冷えていた。夜は茫々として苦悩する夢魔の姿だった。人肉を啖《くら》いはじめた犬や、新しい狂人や、疵だらけの人間たちが夢魔に似て彷徨《ほうこう》していた。すべてが新しい夢魔に似た現象なのだろうか。廃墟の上には毎日人間がぞろぞろと歩き廻った。人間が歩き廻ることによって、そこは少しずつ人間の足あとと祈りが印されて行くのだろうか。僕も群衆のなかを歩き廻っていたのだ。復員して戻ったばかりの僕は惨劇の日をこの目で見たのではなかった。だが、惨劇の跡の人々からきく悲話や、戦慄《せんりつ》すべき現象はまだそこここに残っていた。一瞬の閃光《せんこう》で激変する人間、宇宙の深底に潜む不可知なもの……僕に迫って来るものははてしなく巨大なもののようだった。だが、僕は揺すぶられ、鞭《むち》打たれ、燃え上り、塞《せ》きとめられていた。家は焼け失せていたが、父母と弟たちは廃墟の外にある小さな町に移住していた。復員して戻ったばかりの僕は、父母の許《もと》で、何か忽《たちま》ち塞きとめられている自分を見つけた。今は人間が烈《はげ》しく喰《く》いちがうことによって、すべてが塞きとめられている時なのだろうか。だが、僕は昔から、殆どもの心ついたばかりの頃から、揺すぶられ、鞭打たれ、燃え上り、塞きとめられていたような記憶がする。僕は突抜けてゆきたくなるのだ。僕は廃墟の方をうろうろ歩く。僕の顔は何かわからぬものを嚇《かっ》と内側に叩きつけている顔になっている。人間の眼はどぎつく空間を撲《なぐ》りつける眼になっている。のぞみのない人間と人間の反射が、ますますその眼つきを荒っぽくさせているのだろうか。めらめらの火や、噴《ふ》きあげる血や、捩《も》がれた腕や、死狂う唇《くちびる》や、糜爛《びらん》の死体や、それらはあった、それらはあった、人々の眼のなかにまだ消え失せてはいなかった。鉄筋の残骸《ざんがい》や崩れ墜ちた煉瓦《れんが》や無数の破片や焼け残って天を引裂こうとする樹木は僕のすぐ眼の前にあった。世界は割れていた。割れていた、恐しく割れていた。だが、僕は探していたのだ。何かはっきりしないものを探していた。どこか遠くにあって、かすかに僕を慰めていたようなもの、何だかわからないとらえどころのないもの、消えてしまって記憶の内側にしかないもの、しかし空間から再びふと浮び出しそうなもの、記憶の内側にさえないが、嘗《かつ》てたしかにあったとおもえるもの、僕はぼんやり考えていた。
 世界は割れていた。恐しく割れていた。だが、まだ僕の世界は割れてはいなかったのだ。まだ僕は一瞬の閃光を見たのではなかった。僕はまだ一瞬の閃光に打たれたのではなかった。だが、とうとう僕の世界にも一瞬の大混乱がやって来た。そのときまで僕は何にも知らなかった。その時から僕の過去は転覆してしまった。その時から僕の記憶は曖昧《あいまい》になった。その時から僕の思考は錯乱して行った。知らないでもいいことを知ってしまったのだ。僕は知らなかった僕に驚き、僕は知ってしまった僕に引裂かれる。僕は知ってしまったのだ。僕は知ってしまったのだ。僕の母が僕を生んだ母とは異《ちが》っていたことを……。突然、知らされてしまったのだ。突然?……だが、その時まで僕はやはりぼんやり探していたのかもしれなかった。叔父《おじ》の葬式のときだった。壁の落ち柱の歪《ゆが》んだ家にみんなは集っていた。そのなかに僕は人懐《ひとなつ》こそうな婦人をみつけた。前に一度、僕が兵隊に行くとき駅までやって来て黙ったまま見送ってくれた婦人だった。僕は何となく惹《ひ》きつけられていた。叔父の死骸が戸板に乗せられて焼場へ運ばれて行く時だった。僕はその婦人とその婦人の夫と三人で人々から遅れがちに歩いていた。その婦人も婦人の夫も僕は何となく心惹かれたが、僕は何となく遠い親戚《しんせき》だろう位に思っていた。突然、婦人の夫が僕に云った。
「君ももう知っているのだね、お母さんの異うことを」
 不思議なこととは思ったが、僕は何気なく頷《うなず》いた。何気なく頷いたが、僕は閃光に打たれてしまっていたのだ。それから僕はザワザワした。揺れうごくものがもう鎮《しず》まらなかった。それから間もなく僕の探求が始った。僕はその人たちの家をはじめてこっそり訪《たず》ねて行った。山の麓《ふもと》にその人たちの仮寓《かぐう》はあった。それから僕は全部わかった。あの婦人は僕の伯母《おば》、死んだ僕の母の姉だったのだ。僕の母は僕が
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