は剥《は》ぎとられた世界の人間。だが、僕はゆっくり煙草を吸い珈琲を飲む。僕のテーブルの上の花瓶《かびん》に活《い》けられている白百合《しらゆり》の花。僕のまわりの世界は剥ぎとられてはいない。僕のまわりのテーブルの見知らぬ人たちの話声、店の片隅《かたすみ》のレコードの音、僕が腰を下ろしている椅子のすぐ後の扉を通過する往来の雑音。自転車のベルの音。剥ぎとられていない懐《なつか》しい世界が音と形に充満している。それらは僕の方へ流れてくる。僕を突抜けて向側へ移ってゆく。透明な無限の速度で向側へ向側へ向側へ無限のかなたへ。剥ぎとられていない世界は生活意欲に充満している。人間のいとなみ、日ごとのいとなみ、いとなみの存在、……それらは音と形に還元されていつも僕のなかを透明に横切る。それらは無限の速度で、静かに素直に、無限のかなたで、ひびきあい、むすびつき、流れてゆく、憧《あこが》れのようにもっとも激しい憧れのように、祈りのように、もっとも切なる祈りのように。
 それから、交叉点《こうさてん》にあふれる夕の鎮魂歌……。僕はいつものように濠端《ほりばた》を散歩して、静かな、かなしい物語を夢想している。静
前へ 次へ
全63ページ中59ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング