揺れているなかから、ふと声がしだした。お絹の声が僕にきこえた。
〈お絹の声〉
わたしはあの時から何年間夢中で走りつづけていたのかしら。あの時わたしの夫は死んだ。わたしの家は光線で歪《ゆが》んだ。火は近くまで燃えていた。わたしの夫が死んだのを知ったのは三日目のことだった。わたしの息子《むすこ》はわたしと一緒に壕《ごう》に隠れた。わたしは何が終ったのやら何が始ったのやらわからなかった。火は消えたらしかった。二日目に息子が外の様子を見て戻って来た。ふらふらの青い顔で蹲《うずくま》った。何か嘔吐《おうと》していた。あんまりひどいので口がきけなくなっていたのだ。翌日も息子はまた外に出て街のありさまをたしかめて来た。夫のいた場所では誰も助かっていなかった。あの時からわたしは夢中で走りださねば助からなかった。水道は壊《こわ》れていた。電灯はつかなかった。雨が、風が吹きまくった。わたしはパタンと倒れそうになる。
足が、足が、足が、倒れそうになるわたしを追越してゆく。またパタンと倒れそうになる。足が、足が、足が、倒れそうになるわたしを追越してゆく。息子は父のネクタイを闇市《やみいち》に持って
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