た。鏡があった。お前の側には鏡があった。鏡に窓の外の若葉が少し映っていた。僕は鏡に映っている窓の外のほんの少しばかし見える青葉に、ふと、制し難い郷愁が湧《わ》いた。「もっともっと青葉が一ぱい一ぱい見える世界に行ってみないか。今すぐ、今すぐに」お前は僕の突飛すぎる調子に微笑した。が、もうお前もすぐキラキラした迸《ほとばし》るばかりのものに誘われていた。軽い浮々したあふるるばかりのものが湧いた。一人の人間に一つの調子が湧くとき、すぐもう一人の人間にその調子がひびいてゆくこと、僕がふと考えているのはこのことなのだろうか。
 僕はもっとはっきり思い出せそうだ。僕は僕の向側にいる。鏡があった。あれは僕が僕というものに気づきだした最初のことかもしれなかった。僕は鏡のなかにいた。僕の顔は鏡のなかにあった。鏡のなかには僕の後の若葉があった。ふと僕は鏡の奥の奥のその奥にある空間に迷い込んでゆくような疼《うず》きをおぼえた。あれは迷《ま》い子《ご》の郷愁なのだろうか。僕は地上の迷い子だったのだろうか。そうだ、僕はもっとはっきり思い出せそうだ。
 僕は僕の向側にいた。子供の僕ははっきりと、それに気づいたので
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