粒もなかったとき、僕の胃袋は透きとおって、青葉の坂路《さかみち》を歩くひょろひょろの僕が見えていた。あのとき僕はあれを人間だとおもった。自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ、僕は自分に操返し操返し云いきかせた。それは僕の息づかいや涙と同じようになっていた。僕の眼の奥に涙が溜《たま》ったとき焼跡は優しくふるえて霧に覆《おお》われた。僕は霧の彼方《かなた》の空にお前を見たとおもった。僕は歩いた。僕の足は僕を支《ささ》えた。人間の足。驚くべきは人間の足なのだ。廃墟《はいきょ》にむかって、ぞろぞろと人間の足は歩いた。その足は人間を支えて、人間はたえず何かを持運んだ。少しずつ、少しずつ人間は人間の家を建てて行った。
 人間の足。僕はあのとき傷ついた兵隊を肩に支えて歩いた。兵隊の足はもう一歩も歩けないから捨てて行ってくれと僕に訴えた。疲れはてた朝だった。橋の上を生存者のリヤカーがいくつも威勢よく通っていた。世の中にまだ朝が存在しているのを僕は知った。僕は兵隊をそこに残して歩いて行った。僕の足。突然頭上に暗黒が滑《すべ》り墜《お》ちた瞬間、僕の足はよろめきながら、僕を支えてくれ
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